【ToO #9】山川克則 ~夢はどんどん広がる~

1月に一部先行公開した山川克則氏へのインタビュー本編を公開します。Top of Orienteering はオリエンテーリングマガジンでもご覧になれます。(先行公開パート:山川克則 ~生きていくためにオリエンテーリングしかなかった~

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人を育てる新基軸事業

-現在の会社ヤマカワオーエンタープライズ(YMOE)を立ち上げた2010年以降のことについてお聞きしたいと思います。

整理して話すなら2013年に始めた新基軸事業から触れるべきでしょう。これは前から温めていたアイデアを事業にしたものです。低迷期に入り各大学が大会を開かなくなってしまった。大会を開けるクラブだけがインカレでも成績を残すようになり、このままではいかんだろうという危機感がありました。

しかし地図を作るにも高い精度のものが求められ高級化してしまいハードルが上がってしまっている。しかし地図があれば大会を開けるのにという話もあって学連でも議論になりました。そこで地図調査や渉外なんかを僕が請け負って、それ以外の部分でもオリエンテーリング運営を通じて学ぶことは多いから、そこを学生にやってもらおうという体制を作って、2013年に学連からGoサインをもらいます。

形としてはYMOEが指定管理者という立場で学連が持っている地図のメンテナンスや渉外を行うという契約になっています。そしてそれを学生クラブの大会運営に活用してもらう。文面的には全国どこでもそれができる状態なんですが、実質的には日光矢板地区を拠点に展開しています。会場の関係でインカレや全日本みたいな大きな大会は開けないけどオリエンテーリングに適した山はこのあたりにいっぱいあって、スタート・ゴールと会場が少し離れていても対応可能な学生クラブ主催の大会で使ってもらえればそれらを活用できるんじゃないか、というねらいもありました。

-反応はどうでした?

すぐに学生からアクションがあり早稲田、千葉・東工大と1年に2回応募があり、2014年には筑波大からも応募があり、かつて大会を行っていたクラブがどんどん大会を開いてくれた。ただその時期はまだ(前の会社の)借金返済に追われていたこともあり、かなりばたばたしていて準備がぎりぎりになるなど彼らには迷惑をかけてしまったんだけど、その新基軸事業を始めてからは学生クラブも復興してきて、大会を開くのを躊躇していたクラブが今ではいろんな練習会や合宿を企画するようになり、社会人クラブとも連携したり、自前で地図を用意しようとしたりするようにもなった。人材育成という面では大学のゼミに勝るとも劣らないよい教材になっていると自負しています。まあ僕は相変わらずカッコよく動けていないので、もう少しカッコよく動けるようにしていきたいなとは常々思っているんですが。

-新基軸事業はある程度軌道に乗ったわけですね。

これに関してはもう一つトピックがあって、話が前後するけど西村君(※1)が独立すると言い出した。2012年3月に希望ヶ丘でのインカレを開催するということになっていて、このとき彼が実行委員長をやっていた。そして僕自身はうまく立ち回れていない時期で、関西での開催ということもあり山川にはあまり頼まず関西の人たちで調査もしようということになっていた。ただメインでやっていたマッパーの調査が遅れたりと西村君もだいぶ苦労していました。で、2月の試走のとき、解散してみんながいなくなったときに彼から「独立しようと思っています、山川さんの商売を取ることになるけどいいですか」と告げられた。けどそれは僕にとっては待ち焦がれたことで、応援するよと肩を押しました。

僕がさんざんだったので彼に期待するところはみんな多かっただろうし、関西の人たちはむしろ彼を応援したくて、いろんな仕事を作ってあげた。それで西村君含め、後進に仕事をどんどん任せ、育てていける場を作っておいた方がよいだろうというのもあって新基軸事業を進めた、という背景があります。

-今、西村さん以外にも芽は育っていますか?

育てようと投資したこともありますが、喧嘩別れしたりしてね。思えば前の会社時代にも1人雇って育てようとしたけどうまく行かなかったし、そういう意味ではなかなかうまくいかないところはあります。

だけどこの新基軸事業は人が育っていく姿を見られやっていて楽しいし、個人的にはそこに貼ってあるように(写真)、矢板日光のいろんなところをOマップ化したいという野望もあり続けていきたいと思っている。で、それを進めていくうえで、いつまでもホテルやレオパレス暮らしを続けていくのも苦しい、毎回毎回荷物を移動するのも大変。この周辺でどこか拠点となるところを作ろうと考えだしました。

矢板日光のオリエンテーリングマップ化計画を掲げる

夢のクラブハウスを実現

-ヤマカワハウスの話になるわけですね。

そう。こっちで物件を探しているときにファミテック(※2)関係者から空き家物件を紹介してもらいました。家だけでなく広い駐車場と広い倉庫があるのがとっても魅力的、日光矢板のテレインへも程よい距離でアクセスしやすい。普通の人にとってはあんまり魅力的ではないんだろうけど、オリエンティアにとってこれはいい場所だというので即金で支払い、今の山川ハウスを購入しました。

-即金で買えるほど資金が貯まっていた?

その時期には会社の経営も安定していましたが、まだ資金があったわけではありません。そんなに土地が高い場所ではないことと、親の遺産がいくらか入ってくるという偶然も重なってじゃあそれに投資しようと。2015年のKOLC大会から調査拠点にして、学生たちに活動拠点として大会運営だけでなく合宿や練習会にも開放しています。

山川ハウスが出来るまでは年間3000枚程度の地図売上だったのが山川ハウス後は、こっちでインカレがあったりというのもあって年間10000枚になりました。インカレがなくても7000-8000枚は販売しています。それはほとんど学生の利用なんだけど、それが昨今の学生の競技力向上にもつながっていると思います。ここのところ学生はいっぱい練習するようになっていて、当初の狙いも当たった。自分のやりたいこととお金の面とがようやくうまくマッチしてきた。

-山川ハウスの利用は一般にも開放されているんですよね?

そうです。OBである社会人オリエンティアにも使ってほしい。そもそもこういうことの原点は学生時代に見た北欧のクラブハウスの憧憬。そうこう言いながら僕も学生時代の後半は海外遠征をして見聞を広げてきた。小笠原揚太郎さんについてクラブハウスを転々としながら各地の大会を転戦した。どこにもクラブハウスがあって、そこに人が集まってきて、大会もずいぶん簡単に運営されていてというのだった。当時の日本の大会はマニュアルがあって組織がきっちりしていてとずいぶん堅苦しいものだったので、こんな気楽な感じでできたらいいのになぁというのをずっと思っていた。で、ようやくその夢が形になってきた。北欧のクラブハウスとは違うかもしれないけど、週末には必ず人が来て練習しに行ってくれる。日本のオリエンテーリング界のクラブハウスになればいいなと思います。

7人リレーの今後

-今年の7人リレーから西村さんに多くを譲りました。

2013年頃に7人リレーを僕に任せてくれませんかと突然言われた。彼はまさかOKもらえると思ってなかったようだけど。僕はあっさりいいよと言った。確かに7人リレーは僕のプロ生活の前半を支える重要なイベントだったんだけど、僕自身ここ数年は7人リレーをやり続けることにマンネリを感じていて妥協することも多くなった。それは周りの反応にも明らかに見えるようになってきて、7人リレー自体は楽しいんだけど、がっかりすることも多いという反応はひしひしと感じていた。

そして僕自身は新基軸事業をスタートさせて意識はそちらに向きつつあったときで、そんなときに西村君から声をかけてもらって、彼もそのマンネリ感をなんとか若い力で変えていきたいようなことを言ってくれたので僕としては渡りに船でぜひ、と。

7人リレーというのはどこで収益性を出しているかというと、大会前にみんなで集まって行う膨大な作業を家内手工業のごとくやってしまうことで作っている。それを彼に全部お願いすることはできないかもしれないので、そちらの面ではまだ支えなくてはいけないかもしれない。逆に地図調査は年齢のせいもあってだんだんできなくなるだろうし、彼自身にはもっと地図調査に入ってもらいたいというのもあって当分はそんな分担で続けていくかもしれないですが最終的には全部任せたいと思っています。

インカレの課題

-もう1つのライフワーク、インカレについてはどうでしょう?

インカレもいつかは離れなくてはいけない。春インカレは形も定まって収益性もあるから離れてもよいかもしれないですが、秋インカレのほうはスプリントが始まって大きな問題がたっぷり残っています。

まず、なぜ2004年にロングだけで秋インカレをやるようになったかというと、ロングとリレーの両方を開催するほどのテレインを用意するのが難しくなってきたことが発端で、面積が狭くても済むミドルとリレーを一緒にして、ロングは学連単独のイベントではなくて他の団体とコラボしてやっていこうということになったわけです。大阪や神奈川とはそういうコラボができたが、一緒にできないことも多くてそういうときは前の会社が共催して行うなんてこともあった。西村君が独立して最初にロングを担当したときには有償スタッフによる運営という形を模索したが、彼の日当はアルバイト程度のものになってしまうなど収益面で課題が残っています。そんなこともあってロングの運営は比較的簡素化してやろうという傾向が強い。

一方で世界的な流れからスプリントをやりたいという話になったときに、ロングの省力運営体制でスプリントも一緒にやるとなるととても回せない状態。学生から見れば秋と春に2大イベントが出来たという印象だろうけど、正直どこまで続けられるか分からないのが現状です。来年度の大会も予算的には厳しくて、今の体制では継続性が担保できない。それをどうかしないといけなくて、今は企画から運営まで全部僕がやっているんだけど、それに対するお金の評価はなしでやっている。

そんなんだから来年のインカレ運営者からそんな体制では危ないと指摘を受けたりした。それどころかテレインや会場についても変更が求められた。今更だけど自分の想いだけで決めてしまうのはいかんなと気づいた。これからの僕の役目は若い人の意見を聞いて彼らが目指したい方向へ行けるようにサポートしていくことなんだろうと。例えば渉外なんかは年寄りがやったほうがよいことはどこの世界にもあるわけだし、政治家含めてコネクションはいっぱいできているのでそういうのはどんどん利用してもらいたい。とりあえず秋のインカレも継続できるよう何とか形を作って、あとは少しずつ任せていければいいんじゃないかなと思っています。

全日本大会プロデューサーに

-これまでは学連を中心に活動されていて、表面的には日本オリエンテーリング協会(JOA)と直接関わることは少なかったように思います。しかし今年から全日本大会のプロデューサーという立場に就き、いよいよJOAにも直接的に関わるようになりました。

僕が活動を始めた当時の日本オリエンテーリング委員会(JOLC)が提示するフレームの大会はなんか違うんじゃないかなと思って自分の大会を開催するようになりました。けどこうやって自分の大会が大きくなる一方でJOAの大会は瀕死の重傷状態に陥っている。そもそも日本を代表する大会はJOAの大会であるべきだし、JOAが潰れたら日本のオリエンテーリング界は潰れるというのは正しい見解だと思う。なんとかしなくちゃいけないと思って最後のご奉公のつもりで手を挙げました。無償な上に再建しなくちゃいけないという厳しい仕事だけど。

-学生の地区セレクションと同時開催という案を実行することになりました。

なんでJOAの大会がここまでダメになったかというとJOAの大会に学生が出なくなったからだと思う。統計を見てもインカレに出ている半分以上の学生が全日本大会に出ていない。それを無理やりにでもくっつけようというのが今やろうとしている方針で、学生のセレクションを同時に開催することで全日本の収益性と注目度をとりあえず改善させる。

ただそれはあくまで暫定的な施策で、とにかく次の開催ができないという破滅的な状況をなんとか打開するための急場しのぎにしかすぎない。僕の仕事で重要なのはそのあとどうするか方針を打ち出すことにあると思っています。目標としてはやっぱり全日本が全日本だけできっちり開催できるようになることで、そのためには他の全日本も含めて考え直さないといけないんだろうと思います。ただ正直今は目の前の課題に追われていてまだそこまで手が回っていないというのが現状です。任期2年やったら若い人に任せたいんだけど。

これからの展望

-山川さんの取り組みの甲斐もあってか、ここ最近の学生オリエンテーリング界は活気が出てきたと思いますが、社会人クラブを含めた日本のオリエンテーリング界にはいまだ停滞感があるように思います。何が問題だと思いますか?

これが答えだというのはわからないでしょう、誰も。ただ今までも自分なりの意見は言ってきた。ただ外から言っても変わらないのでじゃあ中から変えようと思ってプロデューサーに応募した。だから泥かぶるつもりでやっています。責任もって取り組める人がいるかどうかじゃないのかな。全日本の仕事は自分のためにやっているというわけではなく、大本営が潰れたら困るのは明らかで、僕の仕事を継ぐ人もやっていけないわけだからなんとかしたいなと。

山川ハウス

-最後に今後のYMOEの展望を聞かせてください。

まずはヤマカワハウスの拡充。ここでは収容力が25名程度で、大きな大会を開くとなると運営者がみんな集まれない。なのであっち(道の向かいの空き家)が空いているので、今狙っている。ただあっちはリフォームもされていないので利用するとなると資金がけっこうかかりそう。

あるいは今の敷地が広いので建物を壊して1階が駐車場の鉄筋2階建てにすればもっといい施設になるかな。今より収容力が倍になればほとんどのことはここでできるようになるからね。

あとは途中でも話に出たけどいろんな僕の仕事を継いでくれる人をどうやって育てるか。難しいところも多いけど人を育てるというのはやはりやりがいを感じる部分でもあります。

そして矢板日光の野望図を実現させること。ここで活動をしていく過程で地元の議員さんとコネクションができて、そこから矢板・塩谷の市長・町長ともつながり、議会でオリエンテーリングを地域おこしに活かすべきといった答弁が行われていたりもする。日光は観光が強いところなのでなかなか入り込めない部分もあるんだけど、そういった地元のコネクションも出来てきたので野望を実現することはもう夢のような話ではなくなりつつある。

夢はどんどん広がるし、それを可能とする資金繰りも見込みが立っている。これからも稼いだ金は日本のオリエンテーリング界がまわるようになることに仕向けたいと考えています。

あ、それから最後に、山川が一番偉いと思っているのは奥さんとお母さん。僕を支え、4人の子供も育ててくれた奥さんがいなくちゃ今の僕はありえないし、この僕を生んでくれた母がいなくちゃ何も始まらなかったわけで、この2人には頭が上がらない。

-年末の忙しい時期にありがとうございました。

豪胆、奔放、そんな言葉が似あう人物だが、意外と人からの評価を気にしたり、自分の弱さを分かっていたり、繊細なところがあると感じた。

オリエンテーリングで生きていくその姿は決してカッコよいものではないかもしれない。しかしカッコ悪くてもしぶとくもがき続け、先駆者としてオリエンテーリング界にレガシーを残し続けているのも確かだ。彼に続く人間がどれだけ生まれるか。これから数年間の活動が大きなカギを握るだろう。

※1 NishiPRO代表西村徳真氏
※2 オリエンテーリング合宿などでよく利用される宿泊施設

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