【ToO #9序】山川克則 ~生きていくためにオリエンテーリングしかなかった~

Top of Orienteering 第9回はハイパーマップクリエイターとも呼ばれる山川克則氏。インタビュー前半、2010年ころまでのキャリアについてお聞きしたので先行公開。インタビュー後半はオリエンテーリングマガジンに掲載予定です。オリエンテーリングマガジン2004年4月号「気になるあの人 第4回」も合わせてご参照ください。

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オリエンテーリング界の名物おじさんといえば山ちゃんこと山川克則だろう。ヤマカワオーエンタープライズ(YMOE)代表として7人リレーやインカレなど日本のビックイベントに関わり続けてきた。そして今年からは全日本大会プロデューサーとして「大本営」にも乗り込む。今後のオリエンテーリング界のカギを握る人物のこれまでについて聞いた。(取材日2016/12/17)

不良学生だったはずが

―まずオリエンテーリングを始めるきっかけについて教えてください。

田舎の岐阜の大垣には小学校の高学年になったら市民の体育少年団に入るというのがあってサッカーや野球と一緒に野外活動というのがありました。簡単に言えばボーイスカウトの市民版のようなもので、キャンプとかオリエンテーリングをするというところでした。そしてちょうど日本にオリエンテーリングが入ってきたばかりのころでもあり、パーマネントコースを利用した大会などが至るところで開催されていて、その少年団でも各地の大会に出るということをしていて、それに参加していたというのがきっかけでした。

地図を持って山を回るというのは面白いと思っていたし、なんの因果か最初に出た大会で道を大回りするようなところをまっすぐ行って優勝するということもあって、その面白さにひかれました。まぁ優勝したのはその一回だけだったんですが。

―そのまま中高とオリエンテーリングを?

いえ、中高時代はオリエンテーリングから離れ、大学も二浪して入学したのでかなり遅れたんですが、何か体にいいことをしようと思っていた時に東大のオリエンテーリングクラブに出会った。地図を持って走るのは好きでしたが、運動はどれもそんなに得意なわけではなかったし、そんな走れる体系ではなかったので、大学1年のときはクラブ活動は全然真面目ではなかった、まぁ勉強も真面目ではなかったですが、雀荘に通うことが多い不良部員、不良学生でしたね。

―そんな学生がオリエンテーリングにどっぷりになるには何かきっかけが?

正直言うと小学校の頃は相当な悪ガキで、今で言ういじめっ子、喧嘩も負けたことなくて、僕のせいで学校に来なくなった子も多数いて、親が何度も謝りに行くくらいだったんですが、年が上がるにつれて統率力を発揮し始めるというか、誰もやる人がいないというときにお前しかやる人間がいない、と言われるような立場になっていたんです。中学でも生徒会長をやったし、高校でも普通は2年の後期からやるところを2年の前期から先代の生徒会長に頼まれてやったりとかしていて、それを引きずってか大学に入ってからもみんなをまとめる仕事をする流れになることがありました。

で、大学クラブの同期にDというのがいて、とても社交的でいろんなところに顔出す奴で、関東学連の当時の委員長もやっていたのですが、僕らの1つ上の代から全国組織を作ろうという動きが始まって学生クラブ連絡協議会が発足し、関東学連の委員長が座長をやるというのでそのDがやっていた。しかしなかなかうまくいかないこともあり、なぜかオリエンテーリングもそんなに速くない僕のところに相談しにくるようになって、いろいろ相談に乗っているうちに学連に関わるようになりました。

学連、インカレとの関わりはじめ

しかし日本学連設立の過程でインカレ(学生選手権)が開催できなくなるという危機を迎えたんです。インカレは読売新聞の一声で始まったようなもので、スポンサーとして運営主体として第1回、第2回と開催してきたのですが、全国組織を作ろうという動きの中で、読売新聞色が強い大会はどうなのかという議論になり、だったら第3回大会から読売新聞は降りるというので彼らが用意していたテレインや人手も使えなくなるという事態になりました。

それが12月くらいのことで、そこから今のインカレのような有志による実行員会が急きょ作られ、なんとか開催しようということになった。で、Dや僕も学生だったけどそれに巻き込まれる形になって、インカレ本番のレースには出させてもらえたけどプログラム作成やトレーニングコースなんかの準備を調査作図からさせられたのです。でそんな状況だったからもう大変で、Dはなんとか3年になったけどそのときの実行委員長や僕らは留年するということになってしまいました。

―インカレにはそんな苦労話があったのですね。ちなみにインカレでの成績は?

地図には造詣があったけど足が速いわけでもなくオリエンテーリングの成績もパッとしないんです。インカレの成績は1年のときの新人クラス11位が最高です。2年の時はもっと悪かった。3年以降は出てないですからね。

―3年目以降は学生ながら運営にまわった?

そうです。大学3年目、2回目の2年生になるのですが、日本学連の立ち上げはなかなかうまく進みませんでした。当時は関東と関西とでもやり方も言うこともまったく違っていてまとまらない。そこで学生クラブ連絡協議会の座長を関東学連の委員長が兼任するのではなく全国のクラブの連合体として日本学連を目指す動きにしようということを僕が言い出して、自分で頭を張ることにして自分の下宿を事務局にして、といったことをやり出したら学校にますます行かなくなってしまいました。

3年目の第4回のインカレからも実行委員長はOBにやってもらったんですが、その実行委員会の立ち上げから会計まで裏の仕事は僕がやることになりました。その時点でもう選手として出ることをあきらめて調査にも入ることになったし、今みたいに旅行会社に任せていないので宿泊の手配も全部自分でやりました。一緒にやっているOBたちも僕が2浪したり留年したりで実際の歳は同じくらいか下になることもありました。

そこから学連ができるまでの議論はとても長いので細かなことは省略しますが、話し合いをすると朝の5時くらいまでかかってしまうことが普通に行われていました。そんなこんなで5年目でようやく3年生になれる始末。

―生活費とか学費とか大丈夫でした?

そうなんです。こう言った活動を続けていくにも原資がいる。大学2年目までは普通の大学生でしたが3年目からは夜中に働くということを始めます。飯能にあった文化新聞社というオリエンテーリングマップを印刷している会社があって、そこでいろいろ覗きに行くようになったら都内の会社のデータ入力のオペレータのアルバイトを紹介してもらい、それが当時はとっても時給がよくて、そこで夜中ずっと働き、朝寝て夕方サークル活動が始まる頃に起きて学校に行くという生活でした。

学校から見たらまったく落ちこぼれで、2年生を3回やったのは希望する専攻に進級できなかったからです。最初は工学系を希望していたのですがだめで、成績がよくなくても入れそうな人気のないところを探すうちに教育学部に健康教育というのがあって、体育学科とは違う野外教育系の学科でしたが、そこになんとか進級でき、今ではテレビなんかにも出る有名人になった同級生たちに起こしに来てもらったり、クラブの後輩にノートを借りたりとみんなに協力してもらいながらなんとか卒業が見えてきました。

6年目でやっと4年生になれたときにようやく日本学連を作ることに方向性が見えて来てきて日本学連主催で2日間大会をやろうということでクラシックとリレーのインカレが始まりました。不真面目だった1年目を思えばよくぞここまでという気がします。

プロとしての第一歩は成り行きで踏み出す

―いよいよ卒業です。就職はどうしようと考えていたのでしょうか?

そう、4年生になれたので一応就活するわけですが、そんなわけでとても成績が悪かったので、どこも簡単に落ちてしまう。かつ就職したら今やっている仕事を誰かに任せなくてはならないわけですが、当時就職し一緒にインカレを運営していたOB連中からも会社に行きながらこんなこと続けることはできない、誰かが専任でやらなくちゃいかんよと言われたこともあり、じゃあ僕がやっていくしかないと、お茶大の裏に古民家を借りて学生も自由に入れる学連の事務局とし、自分は評議委員長として学連をまとめることにしました。

収入も必要なので地図会社に就職した仲間から武揚堂を紹介してもらい、夜勤のアルバイトを始めた。夜はバイト、昼は学連の仕事という生活が始まります。ただ昼の仕事は学連もインカレもボランティアでしたけどね。

そんな感じで、もともとは地図を作ってどうのこうのということよりは組織をまとめる仕事をずっとやっていた、というのが始まりなんです。

翌日に学生のセレクションレースがあるというので準備をしながらのインタビューとなった

―90年代後半にオリエンテーリングを始めた僕らの世代からすれば山川さんはプロマッパ―という印象でしたが、そうなっていくのはいつ頃のことでしょう?

卒業して最初の1年目は実はオリエンテーリングで起業しようと企てた時期があって、ただどこにどんなマーケットがあって何をすればよいのかという目論見はまったくなくて、とりあえず親から100万借りて何かしようと思ってみたものの生活費に食いつぶすということになってしまいました。それはいまだに返せていませんが。

でもそんなこんなでいろいろやっているうちにいろいろな人に声をかけてもらうようになり、それは小泉君やNishiPROの西村君も最初そうだったと思うんですが、みんなに支えてもらいながら生きていくという時期が僕にもありました。当時のJOLCのトップの人からあそこの野外活動施設で教材を欲しがっている人がいるからやってきてと声をかけてもらうとか、そんなところから地図作りを仕事にするという流れにつながっていきます。

だけど地図調査も声がかかってお金になるからやったというだけで、インカレの地図調査も最初はボランティアでやっています。そもそも同年齢の山岸倫也や同期の村越真、あるいは田中徹という地図の神様みたいな人と比べたら僕はオリエンテーリングキャリアでは完全に後輩だし、地図作りではまったく敵わないレベルでした。地図作りがうまいからとか、地図で一旗揚げようといったことでプロになったわけではないんです。僕よりいい地図をつくる奴はそこらじゅうにいた。仕事がないから何かしなくちゃいけないというのでやっただけ。個人事業者というかただのアルバイトレベル。

―そうだったんですね。ちなみに山川さんが大学を卒業して最初のインカレ、インカレとしては2回目の2日間大会が駒ケ根で開催されました。ここで山川さんは実行委員長も務めてます。そして皆さんご存知の通りその後の山川さんの事業でもたびたび駒ケ根が利用されますがそれはこのときから始まったわけですね?

そうです。その時のつながりが今に活かされています。ちなみにその当時恋愛していた人が今の奥さん。大学同期、20人くらいのなかで僕は2番目に結婚した。アルバイトしかしてなくて収入全然なかったのに。結婚するときもそんな収入ない奴と結婚してどうするんだと周りから反対されて駆け落ちっぽい結婚だったんだけど、すぐに子供も生まれて奥さんどころか子供のために働かなくちゃいけなくなって、さてどうしようとなって、まず関東リレーという、今「山リハ」と呼ばれているインカレリレーのためのリハーサルイベントを始めました。

その頃はリレーの戦略なんてまるでなくて、みんな簡単に失格になるし、リレーのための練習の場があるといいね、なんて話があったのでこれは商機だと思って88年の2月に開催し始めた。それは興行的にも当たって、さらにこの年のインカレで足は速いのに優勝できなかった東北大が優勝。関東リレーで痛い目にあって、そこで対策を立てられたから優勝できたんだと当時は言われました。

7人リレーも生きていくために始めた

―手探りでビジネスを展開していくわけですね。

そう。なんか野心があってやったというよりは、生きていくためにとにかくオリエンテーリングで働くしかなかった。朝日新聞の大会なんかも今思えば安かったんですがいろいろやってなんとか食いつなぐというのが2人目の長女が生まれるまで続きました。

でも3人目の次女が生まれたときにさすがにこれではやっていけないとなって、もっと当たるイベントを考えなくてはいけないとなって、今の7人リレー、当時は6人でスタートしましたが、それを始めました。

―山川さんの代名詞的なイベントの始まりです。

これは海外遠征してきた人からユッコラやティオミラといった大会のことを聞き、そんなのを日本でもやってみたいねなんて話をみんなで温めていたので、じゃあそれを始めようとなって第1回大会をやった。2回目までは赤字にならない程度の小さな規模でしたが3回目で人数的に爆発して興行的には優良イベントになった。宝の山をオリエンテーリング界で掘り当てたわけです。

向上と停滞

―7人リレーの成功もあり生活面では安定してきたわけですね。一方でそもそも関わっていた日本学連やインカレとの関りはどうでしたか?。

同じタイミングで学連に会長を立てちゃんとした組織にし、インカレ調査もお金をもらって請け負うようになりました。ただ地図調査に関してはまだ全然で、裏で山岸や村越に助けてもらっていたくらい。みんなが調査してくれたのを2次調査でまとめる程度でした。

さらに1997年頃から腎臓が悪く入院し、99年の12月に透析治療が始まった。なのでその年の日光インカレは羽鳥と弘太郎(※1)に全部任せて最後の仕上げの調査を病院抜け出してやったということもありました。

同じ頃、羽鳥がペローラを連れて来て地図の分野でも国際交流が始まるようになった。そこで日本の地図は遅れているぞ、非常にアバウトな地図でがーっと走ってなんとなくアタックするというオリエンテーリングしかできない。世界の地図はもっと緻密に調査されているということを知って結構ショックでしたね。もっとちゃんと地図を作らなくちゃいかんぞと思った。それまでは地図調査の早さを競うことをやっていたんですが、丁寧に作ることが求められるようになった。

さらに2002年からアメリカのGPSが軍用から民間に開放され使えるようになり、それによってこれまでは地図に歪みがあっても適当にまとめとけばよかったのがGPSを使ってちゃんと調査できるようになります。そして2005年に愛知が開催されることが決まったことも相まって自分で1から地図を作るということになった。その当時も羽鳥や弘太郎のほうが調査はうまかったし早かったけれど。

―なるほど、僕たちはその頃からの山川さんを見て育ってきたわけですね。

ただ2002年から2005年にかけて画期的に地図が良くなっていったのに、日本のオリエンテーリング界は逆に低迷期に入っていく。どんどん競技人口も低下していく。学生に関しては2009年度が一番底で、秋のインカレロングは400人を切ってしまい、すごく苦しくて人出もお金も足りない。

―その時期に山川さんは会社を立ち上げますね。

2002年からジェネシスマッピングという会社にします。武揚堂に勤めていたUというのが会社を辞めるというので地図のことで何かできたらいいねということで、僕自身も仕事が追い付かなくなってきたので会社にしようと立ち上げ、そこまでに貯めていたお金をつぎ込みました。この会社のことについてはうまくいかなかったので正直あまり語りたくない。どんどんお金が無くなってしまうような会社だったので。そんな状態だったので2010年9月の7人リレーで最後を迎える。その時点で金融機関にかなりの負債があり、毎月の返済額が月の収入を完全に上回ってしまうくらいひどい状態でした。

このまま潰れるかというところだったけど知人に相談して一部借金を肩代わりしてもらい、今のYMOEを立ち上げ、事業を継続しました。自分の仕事は地道にやっていけばお金が回っていくことは見えていたし、そのことが分かっていたからその人も投資してくれたんだと思います。そこからは自分の給料は社会保険料とか必要な金額以外はほとんどなしで借金返済に宛て、2014年9月、3年半で知人への借金は完済し、その年度に会社の赤字清算も終わった。最初は天文学的金額だと思ったんだけど割とあっさり返せた。おかげでその後は収入も安定してきた。

―しかしその時期、山川さんへの評価はどちらかというと下がっていませんか?

そうですね。あちこちで調査を遅らせてしまい評判はよくなかったと思います。力もなかったのに理想の自分を想像して無理していたと思います。そしてなんとかそこに近づこうと自分をスキルアップさせる、そんな生き方ですね。

-その理想には近づいている?

きっと。ただやり方が下手なので批判もけっこう受けますけどね。その下手な部分は後輩である西村君(※2)に反面教師にしてもらい、うまくいかなかったことは引き継がせないようにしてます。

インタビュー後半は彼が手掛ける新しい事業や2015年にオープンしたヤマカワハウスのこと、7人リレーやインカレの今後の展望、全日本大会プロデューサーとしての考えを聞いた。後半パートはまずオリエンテーリングマガジンに掲載され、その後O-Supportウェブサイトでも公開予定。ぜひご覧いただきたい。

※1 羽鳥和重氏と中村弘太郎氏。羽鳥氏と地図調査、ペローラ氏との関りについてはこちらの記事もぜひ参照を。

※2 前述のNishiPRO代表西村徳真氏

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