【ToO #5】高橋厚 ~始めると上のほうまでいかないと気が済まない~

Top of Orienteering 第5回はマスターズで世界3位になり、国内では最高齢クラスで戦う髙橋厚選手へのインタビュー。Top of Orienteering 最新記事はオリエンテーリングマガジンでご覧になれます。

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生涯現役を目標とする人の多くが憧れる選手の1人、高橋厚。御年84歳。80代になってマスターズで銅メダル2回を獲得。今でも国内の多くの大会に参加し、毎年海外遠征を行う。長くオリエンテーリングを続けるためには、どんな秘訣があるのか。(取材日2016/1/8)

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会社の研修がきっかけ

―オリエンテーリングを始めたのはいつだったか覚えていらっしゃいますか?

昭和45(1970)年か46年くらいでしたね。当時、私は青森の工場に勤務していました。そこで会社の研修でオリエンテーリングをやろうということになりました。これはもう完全に仕事として、総務課あたりが導入しました。

ちょうど東京オリンピックが終わった頃で、国民のいろんなレベルの人たちの体力づくりという目的でオリエンテーリングが導入されたわけですけど、その時に会社の中でも検討されたようでね、研修に取り入れられました。研修は協調性を高めるという目的のほうが強く、体力作りという側面はあまりなかった気もしますが、とにかく会社として企画しようというので何人かが研修会に行ってきて、その人たちが工場でみんなに教えたわけですね。それでちょっとやってみたんですが、性格に合っていたんでしょうね、これは面白いということで途端にのめりこんでしまいました。

それで当時JOLC(※1)が実施していた3級指導員の研修会が茨城県の高萩であり、参加しました。あそこはあの頃はオリエンテーリングのメッカみたいなところでしたので。

その頃の3級指導員は3日間を2回受ける必要があったのですが、会社から2人か3人派遣されて、その中の1人として参加しました。オーリンゲンの話などいろいろな知らないことを聞き、実習もありました。それで、会社に戻ってオリエンテーリング部を立ち上げたんです。そのうちに青森県で協会を作ろうという話になって、青森県はご存知のように津軽と南部で分かれているので、会長は青森市の先生、副会長は津軽から1人、南部から1人で私が南部の副会長ということで立ち上げまして、創立総会をやったり大会を開いたりしました。会社のほうも会社で導入したという経緯があり、ずいぶん力を入れていてフラッグを買ってくれたり何回か大会も開きました。そうこうしているうちに東京のほうへ転勤になっちゃったんですけれど。

―なぜそんなに好きになってしまったのでしょう?

う~ん、、、本当に好きだったんですよね。性格に合っていたんでしょう。自然の中にいるのも好きだったし、運動も好きだったし。ただね、ボールの関係の運動は本当に下手でした。ゴルフもフットボールも全然ダメ。草野球やってもいまいち。

ただ小学校の頃から体操の時間はそんなに嫌いじゃなかったです。跳び箱やってもクラスでは上のほうでしたし、ロープを登るとかそんなのもよかったです。そんなこともあり最初は山のほうを一生懸命にやっていました。

登山からオリエンテーリングへ

―そういえばオリエンテーリングを始める前はかなり山に通っていたとお聞きしたことがあります。

はい。学生の頃まではそんなにやっていなかったんです。まぁ普通の山にちょっと行くくらいでした。会社に入ってから、最初は関西勤務だったんですが、(日本)アルプスにまで行くようになりました。

―それもやはり会社の人に誘われたりしてですか?

いや、それは会社はまったく関係なしでした。大阪の山岳会に入りまして、22歳くらいのときでしたかね。

―就職してすぐですね。

いえ、実は私、おそらく例がないくらい例がなく、二十歳で大学を出っちゃったんです。ちょうど卒業式の日が21歳になる誕生日だったんです。ちょうど旧制から新制に変わるタイミングだったのと、中高が4年制でそれに予科が1年だったので他より1年短かったのもあって。

―ということは山岳会に入ったのは就職して2年くらいの頃?

そうです。それで大阪でも有力な山岳会で、幅広い、ハイキングから岩登り、冬山までやる山岳会でした。いや、冬山はまだやっていなくて、私が入ってから冬山もやろうかって始めたんですけれど。岩登りはそれまでもずいぶんやっていました。というのもご存知の通り、芦屋の裏山は岩登りのメッカなのであそこにはずいぶん通いました。ただあそこはそんなに大きな岩場はないわけで、物足りなくなり、じゃあ冬山もやろうってんで冬山にも毎年行きました。

重量が40キロ超えると冬山はさすがに厳しかったです。冬山に入れば何十cmと雪があるのがあたり前で、まず雪を落として踏み出しラッセルするんですが、40キロ超えると厳しい。当時の装備は今と違ってどれも重たかったですし、燃料も灯油じゃ冬山では火力が弱くてだめなのでガソリンを持って入りました。

あのころは会社っていうのは休みがあんまりないんですね。年休は12日ぐらいで、土曜日も一日仕事で。ですから土曜も仕事が終わるとザイル担いで芦屋の裏山に上ってテント張って泊まってっていうようなことを随分やりました。

山登りというのはオリエンテーリングの雰囲気とはまた違うわけですよね。テントの中では人と一緒になり、岩登りとなれば人に命を預け、冬山になればパーティーを組んで行動する。間違えれば大きな事故もあるわけで、オリエンテーリングとは違って非常に強い絆に結ばれますよね。

ただまぁあの頃は休みが取れないので海外遠征は非常に難しかったです。外貨ももらえないし、行くチャンスはあったけど、行くには会社を辞めなければならないくらいで、さすがにそこまでは決断できず行けませんでしたけど。

―そこまで本格的に山をやる人は最近でもそうそういないと思います。

そうですね、岩もやって冬山もやるっていうとあんまりいないでしょうね。山をやっていますと言っても多くは無雪期の山だけですし。ただ本当に山をやるなら冬山でやらないとわからないでしょうね。岩登りまでマスターする必要はないかもしれないけど、冬山行くならどうしてもロープはったりしますから、ロープの扱いなどは岩登りの経験がないと難しいでしょうね。もう忘れましたけど、ロープの結び方とか。

―体が覚えていらっしゃるのでは?

そうですね。手に取れば思い出すのかもしれません。そんなことで、始めるととにかく上のほうまでいかないと気が済まないんです。

ですからオリエンテーリングの指導員も3級取ったら次は2級だ1級だと進まなくては気が済まないし、そこまで行ったら今度はコントローラの資格を取るかという話になるわけです。

ついでに山の話をもう一つすると、公認指導員っていうのが1級2級3級とできました。冬山は7回経験があるというのが1級の条件でした。ちょうど冬山7年の経験があったのでじゃあ応募するかということで応募して、今はそれ以外にもいろいろ条件が必要なんですが、あの頃はできた最初の時で、2級や3級の指導員の養成をしなくちゃいかん、ついては1級を作らなくてはいかんということで、無条件で冬山7年やっていればなれちゃうようなものでした。ただ冬山7年っていうのはあの頃なかなかいなくて、結構威張っていたというか、1級の青いバッジをくれるわけですが、山に行くときに見えるところに付けて威張っていました。そういうこともあり今でも続けています。

―オリエンテーリングの話に戻ってきました。東京に来てからはどうでしたか?

東京にきたのが昭和52年で、それからすぐ多摩OLに入りました。当時から多摩OLは盛んに活動していました。やるならうまくなりたいと思って一番いいところに入ろうと思って選びました。私は一度始めるとなかなかやめたり、鞍替えができない質で、それからずっと多摩OLで続けています。

山のほうも辞められなくて、大阪で入っていた山岳会の東京支部ができたのでそれに入って続けていました。

―今でも山に登られますか?

さすがにこの頃はやっている暇がないのと、体力的に厳しいですね。日和田山くらいがせいぜい。山はずーっと続けていたんです。オリエンテーリングを始めてからもしばらくは両方続けていて、そのうちに山のほうに行っている暇がだんだんなくなってきてきました。

―オリエンテーリングの資格取得の方は順調にステップアップされたのでしょうか?

そうですね。ただコントローラ資格を導入するときに苦い経験があるんです、思い出話ですが。

ちょうどコントローラできる頃にある新聞社主催の大会があったんですが、その大会で試しにコントローラを運用してみるかということになったんです。で、当時東京都の協会長でJOAの副会長でもあったその新聞社の重役の方が、その大会を東京都主幹でやるというので、JOAとしてある人を指名して東京都の理事会で紹介することになりました。

なんですが、そのときに私があることを頼まれました。コントローラのチェック項目にメディアに対する配慮といった項目がありますよね。それを見た協会長が「報道機関がスポンサーをしている大会でメディアに対するチェックをするとは何事だというので激怒している」と言うんです。それで理事長たちもオタオタしていて、普段は協会長が理事会に出てくることもなかったんですが、その件が議題になるってんで出てくることになり、コントローラ候補の方も理事会に呼んでいたのですがこれはまずい、とんでもないことになるというので候補の方が会場にお見えになったんですが、「高橋、どこかに連れて行って時間潰して来てくれ」と頼まれてコーヒーショップで時間を潰した記憶がありますよ。

私に言わせれば、コントローラのチェック項目にメディアに対する配慮を決めたのはJOAで、そのJOAの副会長は貴方じゃないかと、今更何を言い出すんだとずいぶん憤りました。あんな人がやっている会社は大丈夫かと思っていましたが。

そんな話はいくらでもあるんですけど、まぁそれは置いておいて、あれはしかし勉強になります。私が見るところJOAで一番うまく機能しているというのはコントローラの制度じゃないかなと思います。必ず毎年一度研修会をやって、試験も3年に一度必ずやっており、手を一切抜かないでやっている。だからコントローラもみんな真剣ですよね。それを運用する担当者には頭が下がりますし、公認大会をある意味で支えていると思います。まぁある意味では煙ったがれている面もあるのが残念ですが。

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全日本は一番目標となる大会

―オリエンテーリングの大会にはどれくらい参加されていましたか?

青森の頃からよく行っていました。東北大会が蔵王などでやっていましたので出かけていました。それから東京へも多摩OLの大会にまで来ていたりしました。

それから全日本大会。第2回以降、運営を除いて全部出ています。第3回大会ではエリートクラスにも出場しました。第2回大会でH42クラスで6位になれたので資格を取れたんです、当時は。でも惨敗でしたけど。すごい迷ってしまい、ビリから2番目でした。やっぱりエリートはすごいなと思いました。

―第一回大会のときもオリエンテーリングはすでにされていましたよね?なぜ参加されなかったのでしょう?

オリエンテーリングはしていました。でもまだ遠くまで行ってやるというほどまでにはなっていなかった。第2回大会の時は青森にいましたけど、埼玉まで来ました。

―本筋からはそれますがお聞きしていて気になったので。当時はH42とかH43とか1歳刻みでクラス分けがあったのですか?

そうだったと思います。でもなんでだったのかは覚えていないですね。その下はもう21だったかもしれません。 最近はもうずっと5歳刻みのクラスが定着しましたね。

60歳を超えてからはずっと60クラスに出ることになりました。以前は上限が60だったので。60歳になったばかりのころは成績もよかったんだけど、70歳が近づくとだめになってしまいました。最近になって70、75ができるとまたよくなってきたんですが、80を超えたからはまたきつくなってきました。

このインタビューの前に全日本の成績をまとめてみたんですが、1位が16回、2位が5回、3位が1回しかないんですよ。私のオリエンテーリングっていうのは非常に荒っぽいんです。粗い。うまくいけばトップ、でもダメなときはダメ。それからペナがとても多い。

―そういえば以前マスターズでもペナが多いことを記事にされていましたね。

そう、多いんです。7人リレーのあんなに大切なレースでもやってしまったり、申し訳ないくらい多いんです。

―全日本大会にずっと参加されているのは、やはり大きな目標として捉えていらっしゃるからでしょうか?

はい。1つの大きな目標です。

―昨今、全日本大会の改革が必要というのが話題に挙がっていたりもしますが、高橋さんにとって全日本大会とはどんな大会なのでしょう?

やはり日本の中で1番目標となる大会です。7人リレーのようなお祭りイベントも大事だと思いますが、あるいは都道府県対抗の全日本リレーなんてのもありますが、個人競技としてはやはり国内では一番ですね。歴史や格式というよりも、同年齢の人がだいたい集まってくるということが私にとっては大きいです。

マスターズ、もっと輝くメダルを

―他に思い出に残るような大会はありますか?

事前にお知らせいただいた質問内容の中でこれが一番困りました。ありすぎてしまって。でも海外のレースも含めて一番印象に残っているというか嬉しかったのはやはりマスターズでIOFのメダルをもらった2つのレースですね。2012年のドイツと2013年のイタリア。後者はワールドマスターズゲームズ(※2)のメダルなのでIOFの名前は入っていないのですが。

マスターズのメダル

マスターズのメダル

―イタリアでのメダルのほうがある意味貴重なのでしょうか?

まぁそうかもしれませんね。でも私にとっては同等の価値があります。ただ残念ながらどちらもブロンズ色のメダル。

―マスターズのメダルは取りにいくつもりで、目標に設定し、準備して取ったものでしょうか?

やっぱり目標でしたね。一度4位になってなんとかなるかなというところまで来て。

ちょっと話がそれちゃうかもしれませんが、年齢とともにどうしてもパフォーマンスは落ちてしまいます。私くらいの年代になるとそれが急激になるんです。なので国内の大会でもそうですが5歳刻みのクラス分けでは5歳の中でも若い方の人が強いんです。この2回はまだ80になったばかりの頃だったので一番有利だろうと狙っていました。案の定、昨年一昨年はダメでしたから(笑)

―するとまた来年がチャンスですね!

そうです、85に上がりますから。ただね、80には84人くらい参加するのですが、85になると途端に減って25人くらいですよ。それだとやっぱりつまらなくなっちゃう。80人の中でメダルをもらうのと20人の中でメダルをもらうのとだとだんだん感激は薄くなっちゃうのかな、と思ってもいます。

―それでもやはり目標は金メダル?

そうですね、もっと輝くメダルが欲しいですね。ただちょっと不思議に思っていることがあって、なぜ私がメダルをもらえて他の日本の人たちが取れないのか、というのも日本では競り合っている人たちがたくさんいて一緒に外国へ行く。なのになかなか上位に行かないんですね。なんの違いなのかな?と思うんです。

―海外に慣れているかどうかの違いが大きいのでは?

いや、みなさん遠征経験も豊富ですよ、私が特別多いというわけではないんです。一緒に行く人たちはいつも一緒の常連なので同じくらい経験はあるはずなんです。それでもなぜ表彰台に上がれないのか、、、

―僕の推測では大会にかける取り組み方の違いではないでしょうか?

それはあるかもわかりませんね。向こうに行くとレストデーがあるわけですけど、そういう日は皆さんたいてい観光が先になっちゃう。だけど私はよほど時間があれば観光にも行くけど、だいたいそういうときはモデルイベントなんかがあるのでトレーニングへ行くっていう違いはあります。

―マスターズにかける意気込みがまず違うんでしょうね。ちなみに初めてマスターズに行ったのはいつでしたか?

う~んとね、マスターズのことは調べてこなかったから今すぐにはわからないですが、マスターズではなくベテランズと呼んでいた頃(※3)から参加していてここ数年は欠かさず参加しています。

世界選手権はね調べていて、併設大会には93年のアメリカからずっと参加してました。ただ一時期はトレイルOの世界選手権と一緒に行くこともあって現地には行くんだけど出られないということもありましたがね。2012年のスイスのときはドイツのマスターズ、ツアーOスイス、WOCとずっと遠征したりしてね。

―なぜ世界選手権にもそんなに参加されるようになったのでしょう?

まず1つは日本選手の活躍を見たいというのがあります。もう1つは運営について見に行くことですね。意外とおそまつなことも多いんですが、少なくとも地図は最新の一番いい地図が出るわけでそれを楽しみに行っていました。

ただね、北欧の、特にフィンランドのテレインだけは慣れないんですね。難しい。マスターズでもチェコのようなテレインならスペシャルゼッケンをつけたりもしていましたが、フィンランドだけはだめです。

―今年のマスターズはエストニアです。

エストニアには行ったことないんですが、ラトビアにはマスターズでは行ったことがあります。砂浜のいいテレインでした。

―エストニアはそれに比べるとやや北欧に近い部分もあるかもしれません。

そうですね、どうなのか、それを考えるのも楽しみですね。

―マスターズでメダルを取ると目標にしたのはいつですか?最初からそのつもりでしたか?

いやメダルまで取れるとは思っていませんでした。私のマスターズの目標は始めのころは一貫してAファイナルに残るということでした。最初の頃に出ていた60や65っていうクラスは一番参加人数が多いクラスでね、ヒートもAからEぐらいまであるんですね。そこでAファイナルに残るっていうのが最初の目標でした。そのうちAファイナルに残れるようになってくると、Aファイナルの半分より上というのが次の目標になりました。これは今もそうです。あとはスプリントではなくロングでよい結果を残したい。

日本からマスターズに行くのはさっきも言った通り顔が決まっていて大体28人なんですね。そのなかで人数が少なくてAファイナルしかないというクラスを除けば、Aファイナルに残れる人は2人か3人くらいで、それはやっぱり残念だなと思いますね。もう少し上にいけるだろうなぁと思っています。

―ただ遊びに行くのではなくしっかり結果を求めるに行くという姿勢が刺激的です。

私が海外遠征する先はだいたい3分の2が北欧なんです。北欧の人でも上のほうの人たちっていうのはすごい真剣なんです。その人たちと一緒にやっていくというのはこちらも真剣にならなければと。しかも彼らは若いころはエリートとして活躍していたのでしょう、そういう話も聞いたことがあります。

続けることは大事

―スポーツとしてのオリエンテーリングの魅力を高める楽しみ方の1つですね。マスターズに向けてどのようなトレーニングをされているのでしょうか?

日本では大会が、レベルは別にしても、たくさんありますから、まずはそれに出ることが一番の練習だと思います。で、家の近くで走ったりというのはせいぜい週1回程度ですね。土日にできるだけ大会に出るようにしています。
今日のことがあるので調べてきたんですが、2015年に出た大会の参加回数。ロング・ミドルのオリエンテーリングが29回、スプリント・パークのオリエンテーリングが23回、リレーが4回、スコアOやロゲイニングが9回、昨年はトレイルランには出ていなくて、マラソンというか近所のロードレースに1回参加して合計66回大会に参加しました。

―単純に計算すれば毎週何かに参加しているということになりますね。

そうです。最近の傾向としては、去年は毎年出ている赤城のトレイルランにケガをしていて出られなかったというのもありますが、それに代わってロゲイニングに参加することが増えてきましたね。マラソンや駅伝にもたくさん出ていたんですが、それも最近はすっかり減って、ロゲイニングが増えましたね。

―しかし大会に出るだけで体力が維持できるものでしょうか?健康体操のようなエクササイズも一切されることはなく?

そういうのはちょっとはやっていますけどね。あとはスポーツセンターみたいなとこに行ったりとかもありますけどそんなに熱心にはやってないです。

―続けていくことが長く続けていられる秘訣、と。

そうですね。続けることは大事です。あとは丈夫な体を与えてくれた両親に感謝ですね。これまで骨折したこともないんです。ひびが入ったことはありましたが。ありがたい話です。

でも運動が得意なわけではありませんでした。学生の頃の草野球でもみんなから鈍足だと言われるくらいで、外野に飛んだのにアウトになったり。今でも足が速い方ではないんです。パークOとかで全年代の人たちと同じコースを走ったりするでしょう?そうすると巡航速度はたいてい220ですよ。ショックですね。

―しかしその数値を越えるといったことが新たな目標になったりしませんか?

いや、それはね、もう無理ですね。ただいかに落ちていくのを抑えるのかっていうのは1つ目標にはなるでしょうね。

それとね、これは年配の方は大体気づいていると思いますが、走る速さもそうですが、オリエンテーリングの集中力や判断力も含めた総合的な速さっていうのは少しずつ落ちていくのではないんですね。5年くらいの周期で階段状にがくんがくんと落ちていく。私はちょうど今その段階にまた入ってしまっていてこの1年はなんだかいまいち調子が良くないですね。

だからこの5歳刻みのクラス分けっていうのは非常によくできている、さすが北欧社会が築き上げてきた積み重ねの成果だと思いますよ。ありがたいシステムです。それでもさっきも言ったとおり5歳のなかでも差がついてくるのでその中でどれだけ落ちないか気を付けないといけないですね。

最近オリエンティアMLなどでも盛んに話題になっていますが、1人でも参加者がいれば高齢のクラスを設けるというのは、1人では競い合いにならないからだめっていう人もいるけど、完走をすることが目的、目標になっている人がいる、お互い完走したことを称え合う、「あーよかったね」と言い合うことがとても魅力だったりもします。若い人、年を取っていなければこの感覚はわかってもらえないかもしれないけど。

確かに運営のほうにしたらコースを1つ作らなくてはいけないのは面倒なことなんですが、そういう意見が多いのが実際でしょうね。

―昨今の年代の高いクラスのコースはどうですか?楽しめるコースでしょうか?

そこはみなさんしっかり心得てくださっていて、年だからって道を走るだけのコースってのはないですね。オリエンテーリングを楽しめるコースを用意してくださっています。

ただ75クラスに出て今年84、一番若い人と9つも違うとさすがに苦しいですね。普通の大会では65クラスぐらいが上限で、それだともう完走するのも厳しくなってきました。5歳刻みのクラス分けをぜひもっと望みたいですね。

まだあと30年楽しめる

―いろいろと取り組まれている中で今の目標はずばり?

いつまでも続けられることです。

―どの大会で何位になるという目標よりでもそれが一番?

そうです。で、ぜひ見てもらいたいものがあるんです。この記事を見てください。

1993年、アメリカであった世界選手権のときの記事です。先ほども言ったとおり、併設大会に出ていたんですね。そうしたらゴールのところでずっと拍手が起こったわけなんですよ。その方、そのときはわからなかったんですが、後で調べてみたら超有名な人だったんです。Nordenfeltさん。91歳。ゴールしたってだけで記事になるんです。元スウェーデン連盟の会長さんだったそうなんですが、すごいピンとして、ちゃんとゴールまで走ってこられていた。そもそもその年齢でアメリカにまで遠征しているのがすごいことですよ。

で、たまたま彼がそばに座っていたので声をかけて話をしたんですね。それで握手したらすごい温かい手だった。体もごつくて背が高い人でした。それで聞かれたんです。「お前は今いくつだ?」って。で「63です」って答えた。そしたら「お前はまだあと30年オリエンテーリングを楽しめるよ」って言われたのが忘れられない。

そのときはあと30年、う~ん夢みたいな話だと思いましたけど、だんだんそれも残り少なくなってきたんでね。

見せていただいたNordenfelt氏の記事

見せていただいたNordenfelt氏の記事

―ではNordenfeltさんのように90歳になってもしっかり走り、ゴールで大勢の人からの拍手を受けながら走るというのが夢なのですね。

はい。去年のマスターズも93歳でスウェーデンからブラジルまで行って参加している人がいましたので、そういう想いは強まりますね。私の目標です。

―2021年、関西でのマスターズで高橋さんの金メダルに期待する人は多いです。

こればっかりは分かりません。生きていられるかどうか。でもそれを目標に、これからもオリエンテーリングを続けられたら幸せですね。

あとね、私はMTBオリエンテーリングはやったことないんですけどね、さすがにもう歳なので。でもトレイルOとスキーOもけっこうやっているんです。トレイルOは小山さん(※4)といっしょに日本に導入した張本人ですし、スキーOも長くやっていて、不思議なことに金メダルが多い。長野オリエンピックのときに菅平でやったときにもメダルをもらいました。

―登山時代にスキーは?

やっていましたので、そのときの経験も大きいでしょうね。いろいろとチャレンジしていくことも目標です。

毎年トレイルランやロードレースにも出場する高橋氏

毎年トレイルランやロードレースにも出場する高橋氏

―最後になります。これまでの話に重なる部分もあるでしょうが、高橋さんにとってオリエンテーリングの一番の魅力とはどこにあると思いますか。

これも答えるのは一番難しいかもしれない。(オリエンテーリングの世界に)入っちゃっているので逆に見えなくなっているというのもあるかもしれません。

山の中や公園の中を走り、そして目標を達成するということ。自分のペースでコツコツと走れること、年代別のクラスがあること。あとはくたびれて来たら途中で適当にさぼれる。誰も見てないですからね。マラソンなんてのはね、大勢に見られているから、途中で腰かけて休んだりとか、歩くのもちょっとねぇ。

そういう意味で自分で自分を制御できることっていうのが魅力ですかね。これは山登りにも通じるところがあります。あんまり深く考えたことはないんですが、たぶんそんなところじゃないでしょうか。

―日本のオリエンテーリング50年を振り返りながらお話をお聞きするつもりでしたが、今現在のことをたくさんお聞きしてしまいました。

そうですね、古い話は少なかったですね。でも昔のことは忘れてしまっているので、今のことやこれからのことをお話しできたのでよかったです。

―ではこれで本当に最後。これからのオリエンテーリングはどうなっていくべきだとお考えでしょう?もちろん個人的な意見、願望で構わないのですが。

オリエンテーリングは特殊な、ある意味ではそんなに大きくなりえないスポーツだと思うんですよね。特殊な人しか長続きしないというのかな。昔のIOFの記事で読んだ覚えがありますが、北欧でも70%は理系の大学を出ているという傾向があるそうです。そういう、ある意味では偏った人たちがやっている性格を持っています。

またあんまり大きくなり過ぎても今度は環境などテレイン利用に問題が出てくる。そのためには適当なところを維持しながら発展することが必要なんじゃないでしょうかね、競技オリエンテーリングとしては。

それとは別に、いろんな場所でいろんなスタイルで、ロゲイニングなんかはまさに今そうですよね、いろんなものを取り入れながら初心者向けの入口を広げていくっていうのも大事なんじゃないでしょうかね。それが裾野になるかは別ですよ。競技とは別の方向になっちゃうのかもしれないし。でもそれでも構わない、オリエンテーリング的な、参加しやすいものがもっと日本で広がらないかなと。

オリエンテーリングが持っている楽しみがいろんな形で広がっていくとよいなぁと思います。競技的な方向にだけ考えていくとこれはもうまったく広がらない。名前にもこだわらない。競技的な部分はしっかりと、今より減らさない努力をして、それとは別に、より多くの人にやってもらえる入口を広げるということですね。

インタビュー後、食事をしながら今年の夏の遠征計画を話してくださった。「マスターズには必ず行きたい、スイスOウィークもいい大会なので行きたいんですよね。でも間に台湾でアジア選手権があってそれも行ってみたいんだけど、、、」、さすがに台湾は諦めるとおっしゃるのだろうと思ったら「体力的にもつかなぁ」。その情熱の強さに脱帽。

※1 JOAの前身、日本オリエンテーリング委員会
※2 陸上競技や水泳など他の競技が集まって行われるマスターズスポーツの祭典。
※3 1996年よりWorld Masters Orienteering Championshipsになる
※4 小山 太朗氏

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