筑波の5年 (その6、2002219日受信)

鈴木康史

 

17.インカレショートin滋賀

 ショートは印象に残っている。(そのわりには、覚えていないことが多い。)僕にとっては始めてのちゃんとしたオフィシャル業なので、どんな感じなのかなあと興味もあった。愛好会全体として、どういう感じで大会に臨むのか、そのへんのお手並み拝見、というところだった。

 だから、直前の対策では、なるべく言いたいことを言わずに我慢していた。野口がやってくれていたと思うが、なるほど、こういう風に持っていこうとしているのか、といういい予習になった。もちろん僕の観点からすれば、なるほどと思わされるところも、無駄だなあと思うところもあったが、どれもこれも、彼ら自身が考えてやっているものであって、それはそれでいいのだ。そこに自分をどう溶かし込むか、が僕の課題だった。この頃は、まだ僕はそれほど愛好会に溶け込んでいなかったのだ。

ただ、今だに心残りは、オリエンテーリングの現場からだいぶ離れていたので、現役時代ならばもっと具体的に「地形図」や「コースプロフィール」などの諸情報から、どんな感じの林なのか、という具体的な植相や地形の雰囲気などがピンと来る、はずだったのが、それができなくなっちゃっていたことだ。それができていれば、ショートのスタート直後のああいう林の課題に対して、もっと注意を喚起できたのだが、それがまったくできなかった。得意分野であっただけに悔しい。あそこで多くの人がミスしてしまったのは、僕がある程度は防げたかもしれない事だった。残念。

で、インカレショートに行くバス。学生時代に筑波が大会に大型バスをチャーターしてくる、という話は聞いて知ってはいたのだが、現物を見たことがなかったので、今ひとつピンと来ていなかった。けど、本当だった、しかも滋賀まで。

一番後ろの席で、谷中が横にいたな。3人分ぐらいの席を一人で占領してはいたけれども、やっぱり苦しかった。いくら寝ても寝たりない、そういう感じ。行きのバスでは、安田先生のダメ人間シリーズをはじめて読んで一度感動、そして僕がすでに登場していることに二度感動したことは記憶に新しい。

 久々の関西テライン、しかも、琵琶湖西岸のテライン。

琵琶湖西岸で最も有名なテラインに「蓬莱」がある。かつて大学時代に私の学年が中心になって行った大会が蓬莱大会だった。マッパー兼競技責任者をやった想い出深い土地だ。1月の調査でひどい捻挫をして、3月のインカレまで直らなかったなあ。ちょうどトレコースの南側にあたる。そしてさらに、ショートのテライン、ガリバー旅行村は、その大会のテライン探しのときにいちど訪れた場所。15年も前のことだ。会場に通じる一本道をたぶん会場の付近まで登ってくと、そこには当時何もなくて、宅地開発直前の更地のような殺風景な景色が広がり、いきなり何の説明もなく「ガリバー村(確かそんなの)」とのみ書いたの大きな立て看板があった。「何でガリバーやねん!!」と突っ込みを入れたくなるようなあやしい景色が印象に残っている。

 そういう経緯があって、僕は自分の過去を辿るような、そんな懐かしさにひたっていた。湖西の山並みや、あの独特のひなびた雰囲気は、僕には非常に居心地のいいものだった。実は去年はショートのみならず3月のインカレも、僕の懐かしい過去を辿らせてくれる、そういうものだった。大学時代のオリエンテーリングにのめり込みはじめた時代を象徴する二つのテライン、蓬莱と愛知作手のテライン。不思議なめぐり合わせである。

しかし、そんな事は学生たちには何の関係もない。トレコースに到着し、学生たちが準備に入る。懐かしさにひたっている時間はない。僕はそこで、何をどうしたらいいものか、一人でうろたえながら時間を過ごしていた。まだまだ求心力を持ち得ているわけではなく、しかも僕のやり方が理解されているわけでもなく、アドバイスが空しく宙に消えてゆく感じだった。

しかし、結果を出してゆくには、それを厭うていてはいけない。その中から何かの一言が、消え去らずに学生たちにつなぎとめられ、それが実を結ぶ。結果とはそういう形でしか出ないのだから、それを厭うていては、何も始まらない。

ショートは独特の競技形式ではあるが、決してやるべき事は変わらない。短いから、速く走らねばならない、短いから、ミスをしてはいけない。どちらも正しいし、しかも、それはロングでも同じことだ。結局、ショート独自の課題があるとすれば、それは、そういった心理状態の中で、いかにやらねばならない事をやれるか、それだけの事なのだろう。

そういったことがいかに学生たちに伝わっていたか。結果を見ると、必ずしもそれが伝わった、という感じではなかった。僕がオフィシャルとしている事によるプラスアルファは残念ながら感じられなかったのである。実力に見合った成績を出している何人かの上回生、上松、谷中、野口、中村、二俣、彼らには、そういったことが伝わらなくとも(成績の良い悪いは別として)それはそれでいい。彼らには彼らの確固たるやり方があるのだろうから。だが、佐々木、塩田、加藤が期待以下の成績で、増田も入賞に届かなかった。他のメンバーたちも、目覚しい結果を残しているわけではない。妙にジリ貧だった。現状維持は後退でしかない。

選手が選手自身でやれる事、それにはおそらくは限界がある。最後の、ギリギリの一線を乗り越えられるか乗り越えられないか、それはもう努力ではどうにもならない、いつも言う「賭け」の世界に属する。その「賭け」に勝つためには選手とは異なった立場の人物の存在は大きい。だから、彼らの努力が、結果に結びつかなかったということは、僕の失敗という事でもある。今回ははじめてだから仕方がないと思いながらも、なんとなく悔しい気分は拭い去れなかった。

しかし、悪い事ばかりでもない。スタートでの業務を終え、会場に戻ってきてすぐに、小泉がゴールした。入賞できるタイムのようだ。僕は、妙な予感から、5位ぐらいになるんじゃないかなと思っていたのだが、実にそれは現実となった。おそらくは、あれが彼が全国区ではじめて名前を知られた瞬間であろう。そして、この事実は、高橋の学年が抜けてもうだめだとといわれていた筑波が、もしかしたら・・・と全国の大学に思われる、その瞬間でもあっただろう。

正直言ってこの瞬間まで、特に男子については、誰が速くて、誰が核になれて、というような情報はいっさい僕の中になかった。特に、春から夏にかけては、野口と増田がいろいろなセレを免除されていて、全員が一斉に走る、そういう場所を見ることがなかったので、誰がどういう位置にいて、どういうチームができそうかについては一切白紙だったのだ。前回書いたチーム構想はこれ以後のお話だ。

それは、単に客観的なものではなくて、彼ら選手たち自身の問題でもある。おそらく、セレクションなどで全員で一斉に走り、同じ目標に向かってゆくことで、彼らはたくさんのものを共有するに違いない。勝ったものは勝ったという確信を、負けたものは負けたという悔しさを、チームの仲間との時間を共有しながら、自らのものにしてゆく。単に勝ったのではなく、彼らは他者との関係の中で勝ち、負け、そして彼らとの関係を新たに変容させてゆくのだ。こういった関係をうまく作り上げてゆく中でこそ、チームの勢いや、チームの信頼感や、チームのまとまりや、そういった目に見えず、測れもしないものが確実に生まれ、育ってゆくのだろう。

小泉が結果を出した瞬間に、僕は、愛好会が大きな渦に巻き込まれてゆくだろうなとボーっと予感していたような気がする(今になって思い出すとたぶんそういうことだったんだろうな・・・そのときは良くわからなかった)。それはつまり、われわれが新しい関係を作り出すための起爆剤なのだ。新しい関係を作るのは、小泉構造改革みたいなもので、痛みを伴う。だから、僕らはすぐに安易な日常の中で、だらだらと過ごしてしまう。それを吹き飛ばすレベルのショックはそうはない。小泉の出した結果は、そういうショックになりうるものだった。彼自身がこれで自信を持ち、速くなってくれるだろう事はもちろんだが、彼の成功が愛好会に与える影響は計り知れないものがあるだろう。

きれい事を言っても仕方がない。僕はこの結果によって、他のメンバーたちが本気で悔しく思い、彼を嫉妬して、もだえ苦しんでほしいと思った。いろいろ言い訳するも良し、忙しさに逃げるも良し。それが人間だから、それでいいと思う。

もちろんそれは当面は表面には現れてこないだろう。だが、いつの日か、団体戦に至る道程の中で、そういった本音がぶつかりあって、吐露される日が来る。彼らはそのとき、そういう情けない、弱い、言い訳ばかりの自分自身に向き合い、それを乗り越えねばならない。そして、それを他者に顕せること、そこにはじめて、新しい関係が成立する。結局は、お互いが弱い人間だという事をお互いが理解しあうことでしか、われわれは信頼を作り出す事はできないのだ。

これまでそんなに注目されてこなかった小泉が結果を出したということには、そういう意味があったのだ。これはチャンスだ。愛好会に渦巻く情念ともいうべきエネルギーに油を注ぎ、燃え上がらせてくれる。彼らは、たぶん、相当に変わらなければならない。最近「変わらなくちゃ」とテレビからも耳あたりのいいスローガンが流れるが、言われなくても、できる人はちゃんと変わっていっているし、それは心地よいものでも、輝かしい未来でもなく、本当に大事なものを捨ててなければ得られないしんどいものなのだ。

この時点で、筑波が団体戦でそこそこいけるだろうということは、半分保証されていたと言っても良い。あとは、持って行きかた次第だし、そういう問題に話が移ってくれば、僕も大きくかかわる事ができる。新しい関係が出来上がってゆくのであれば、そこには僕も入り込む事ができる。これがようやくのコーチングの始まりだなあ、と、帰りのバスで、疲れた頭で、ぼんやりと思っていたようないなかったような。

とにかく、流れが動き始めた。こうなれば、今まで弱いと思われていたことが、プラスに作用する。ものは持っていきようでどうにでもなるものなのだ。

 

18.本セレ・愛知合宿

 これは部内のセレの1・2戦にあたる。あまり覚えていない。谷野にいろいろと助けてもらったり、堀出やかとまりにいろいろ話を聞いたり、そんな中で、とりあえず、上位3名がおおよそ確定したのは良かった。本セレでは増田がトップで、小泉とダブルエースでいけるというメドがついたこと。2、4走という大事なところを任せられる二人がいる、チームにとってこれほど助かる事はないのだ。第2戦では増田の失敗があったものの、佐々木がちゃんと通過を決め、4人目は谷中、野口の2人のどちらか、となったことで、オーダーは予定通りで行けそうな目処がついた。これはひとえに選手の頑張りのおかげだ。

 愛知の合宿は、小泉、増田、とっきーの4人で先乗り準備。懐かしい作手村の風景に、感傷的になりそうになる。ちょうどあれは2回生のとき。部内セレで4位以内に入ったものの、結局は監督の決定で個人戦だけのエリートとなって、悔しいながらも正直ほっとしていた自分。しかし、個人戦『水別』。名大大会のテライン。インカレ当時はこのあいだよりもヤブも多く、非常に難しいコース。しかも小雨、霧が立ち込め、寒さも厳しい最悪のコンディション。そして、当時4回生の京大のエースがダウン。急遽、メンバー入りをし、翌日は2走、6位でタッチを受け、20分のミスをしてしまった・・・。ミスをしたのは、このあいだの個人線のスタートへの誘導付近。たぶんあのあたりをうろうろさまよったはず・・・。そういえばそこで当時1年生の岡田に出会ったな。

 今から思えば、当時の自分はうまさも何もない、力任せのオリエンテーリングをしていたのだ。監督の判断は正しかった。当時、エリートコースというと、長くてタフであることが第一条件とされていた時代。まだ僕はタフなだけの若造だった。タフなエリートコースに絶えて、セレに生き残っただけだった。個人戦でも、どれだけミスったかわからないが、悪条件に助けられて40位は何とか確保した、それだけだった。そして、時代はすでに先に動こうとしていた。

愛知インカレの初日、あの、個人戦のタフな難コースが、古い時代の終焉であったような気がする。翌日のリレーはスピードの時代への幕開けだった。ウィニングタイムは一人につき5分から10分ぐらい短い。タフなコースではまったくなかった。僕は当然のごとくミスをしたのだ。

ゴールした直後、涙がいつの間にかあふれていた。あんな経験はあとにも先にもあれ一回だ。どこかから涙が溢れ出してきて、どうにもならなかった。あの瞬間に、人生が変わったのだろう。ゴールは、このあいだの個人戦エリートの待機所、体育館から、スタート地区に向かう途中の広場だった。

再びあの場所に、帰ってくることになった。充分に経験を積んで、若さと勢いを失って・・・。何も見えていなかった、しかし何にもめげなかったあのときの自分が、愛好会の学生たちに引き写しになる。あの時僕に足りなかったものを、だから彼らに教えてやればいい。それが彼らの勢いにうまくブレンドされれば、最高の結果が出るだろう。僕はひそかに、リベンジを誓っていた。

 

19.愛知からの帰り

 増田カーで、小泉、新宅と4人で帰る。箱根越えの途中で滑り始める。チェーンを巻こうとするが、何か、ペンチがいるらしい。そのへんの車に借りにいく。年の功だな。一回巻いたが、動き出すとすぐに取れた。また巻く。もう暗い。箱根を降りて、小康、チェーン取る。だが、雪はやまぬ。また巻く。東京を越え、雪が深くなる。通行量も減る。木が倒れてる。一度橋の上でタイヤをとられる。チェーンも意味なし。確か3時か4時ごろ帰宅。合宿よりも帰りの方が印象深い。

 

 

20.インカレ部内セレ第3

 雪で東名が止まり、順延になった。

 

21.インカレ部内セレ第3戦再戦

「山口は絶対運営者からはずしましょう」と藤城が力説したので、そうすることにした再戦は何とか富士で行えた。当日は富士山もきれいで、素晴らしい景色だった。とにかく、やれてよかった。それだけだった。谷中が風邪だとか言っていたが、それは仕方のないことだ。今年の方針では、救済はできなかった。結局、野口が4人目と決定し、走順もこの時点でほぼ決定。何も問題なく、インカレに臨めることになった。これもすべては選手の頑張りだ。良かった。そういえば、高橋に風邪をひかせた。ごめんなさい。

このセレは、何が何でもやりたかった。こういう形式を、これまでの筑波では採用していなかったようだが、これはぜひやろうと思っていたひとつであった。京大では、毎年、3本目の最後のセレクションは部内のみのレースをやっていた。このレースが、実に、インカレに向けて、いい雰囲気を作ってくれるのだ。

セレクションは、告白の舞台である。「吐露」とか「告白」とか先に書いたが、何もそれは口で言うばかりではない。いやむしろ、それは、ふだんの生活の端々に、何となく漂っているものだ。ボックスでだべっているとき、トレーニングのとき、レースのあと・・・・そういった時のおしゃべり、やっていることから、さらにはちょっとした表情とか、しぐさとか、そういった全てで、仲間が何を考えているかはだいたいわかる。

そして、セレというのは、そういうものの極限に位置する行事だ。セレに対する態度、準備、結果、その後に交わされるいろいろな会話にいたるまで、あらゆる関係すべてがそういった吐露合戦だ。だから、その「吐露合戦」を充分に行ってもらうためには、最終戦は部内のみのクローズである必要があった。

僕は絶対にやろうと思っていたのはそういうわけだ。この形式の意味は大きい。そこでわれわれは、仲間の中だけで思う存分そういった吐露合戦を行う事ができる。他の参加者がいる中では、特に、他大学のライバルたちがいる中では、そういった関係も含んだ、吐露合戦が行われる。もちろんそれは無駄ではないが、団体戦に向けて、一度は、そういった内部だけのものが必要なのだ。前に書いた、「談合」もその3本目のレース後に行われている。これはそういう雰囲気だからこそ行えたものだ。

ここで、結果がすべて出る。団体戦メンバーが決定する。落ちるメンバーも出てくる。いや、4人以外は全員が落ちるわけだ。腹を括らねばならない瞬間だ。個人も、クラブ全体も。落ちたメンバーは、その悔しさを何とかせねばならない、通ったメンバーは、背負った責任を何とかせねばならない。ここでたぶん、今までで最も鋭く、みんなの本物の姿が顕れる。声に出してではなく、むしろその姿の中に。

これを部内だけで共有すること。これがかけがえのない時間だ。たぶんあの日メンバー達を見てるだけで覚悟が伝わってきたと思う。落ちた悔しさを噛み締めている選手の姿は、彼のそれまでの頑張りをあらわしているのだ。それを見つめていねばならない。何もしてこなかった人は、やっぱりそう思ってちょっと悲しくなっただろう。だけど、それも、愛好会の一つの姿である。それを見て、また何かを感じている仲間もいる。通った人も落ちた人も、頑張った人も、頑張らなかった人も、盛り上げようとした人も、そうでなかった人も、みんな何かを感じていて、お互いそれを感じあいながら、そういったすべてがあそこにあって、われわれは自らのすべてを受け入れてゆくのだ。これが覚悟である。

こうして、たぶん、秋の間、僕には計り知れないところで、動いていた愛好会のさまざまな関係が、一つの節目を迎えたのだと、僕はレース後、あの道端でいろいろ喋っている中で感じていた。いい雰囲気だった。野口の顔が引き締まった気がした。問題ない。ベストの道を歩んでいる。それでも早稲田には届かないかもしれないが、しかし、できうる限り最高の準備が、きちんと、愛好会によってなされていた。だから、僕は、何の苦労も、心配もなく、インカレを楽しみに待つのみだった。

ちなみに、付け加えると、ここでOBOGがいてくれることは非常にいい。学生たちの気持ちが良くわかり、しかも当事者ではない彼らは、いろいろな立場を理解してやれるから。だからOB運営は非常にいいのですよ。来てくださったOBOGの皆さん、ありがとうございました。あの雰囲気、良かったでしょ?

 

 

22.荒れ地にて

 「27歳」の原稿で、ニューエストモデルの「杉の木の宇宙」という歌のことを書いている。最近のアルバムで、元ニューエストの中川敬は、「荒れ地にて」という名曲を作ってくれた。

 

さやぐ風のむこう どしゃぶりのまたむこう

誰もいない荒れ地 名もない道の途中で

星屑に願いを 星の数だけ届けよう

夕暮れの少年は さよならだけを覚えた

 

たぶん、この少年は、杉の木に守られて、宇宙を見つめていた少年だ。だけど、そこから出てきた彼を待っていたのはじつは荒れ地に過ぎなかった。世界はそういうもので、なおかつそこで生きていかないといけないっていうことだな。

 

声はまだ聞こえる

ハラへらして夢を食う

ここがどこであっても

風がはらんだ荒れ地だろ

 

「杉の木」はアルバム『カウンターセンサーシップ』byニューエストモデル、「荒れ地」は『スクリューボールコメディ』byソウルフラワーユニオンに入っています。