筑波の5年 (その5、2001年9月25日受信)
鈴木康史

14.Lost Weekend

東京は、単にまわりに山がなくて、開放的だから軽いのかもしれない。
何だか、街にいろんなものを奪われてゆく、そんな気にさせる場所だな。前回の続き。
ところで、研究室の後輩からのメール。僕のHPを見て。
彼は現象学を研究している人間だから、僕以上に難しい事を書いている。


鈴木さんのホームページを見ていると以下のような言葉を見つけました。

> ルーツがないからいいのか。大阪の重さに較べて、東京は軽い。とりあえず、何でもで
> きそうな気がする。よくわからんが、切ない感じ。京都の五山の送り火、大文字の火が
> 消えてゆくときの切なさ、夏が終わる切なさ、あそこまでは行かなくとも、毎日がそん
> な感じ。毎日がハレの日で、毎日祭りの終わりを感じて、毎日落差が激しくて、関西人
> が筑波から見た東京はそんな街だ。

ほぼ(「全く」というと他者理解を可能にしている表現なので)分かる気がします。

院試のため初めて東京の地に着いたとき、私も自分が何にでも成れるような「軽さ」を感じました。今思うと、自らの<歴史性>を意識させることなく、新たな自分を創造していくような、そんな軽さだと思います。一般的な表現だと「リセット」ですかね。自分だけの違和感では無かったと思えたことが、逆に<関西>を感じるきっかけとなりました。 しかし、筑波ではそのような感覚を抱きません。入学当初は少なからず<軽さ>を感じたのですが、今ではもう<既知>な感じがしてなりません。もちろん、学問的には<無知>なことはありますけど。

閑話休題。
現象学的に世界を説明するのならば、<私>に関係しない<世界>はありません。あくまで、独我的な立場ではありますが、志向性という考え自体が<他者>を前提としていることも確かで(と私は考えています)、「現象学ってなんでもありやん」という立場は反駁されなくてはなりません。とするならば、<私>だけでは世界は成り立たないはずです。きっと、経験という言葉が指し示す事実(現象)はそんなところにあると思います。

何年か後に今の私を眺める私を想定すると、「若かったな」と思うことでしょう。ですけれども、<私>は変化している実感はないはずです。しかし、何かは変わっているのも確かです。

経験もしくは体験(変わった自分)を、「図」と「地」で考えるならば、「地」になっているものを指すでしょう。意識されることなく、<私>を構成するもの。「図」にしようとすると、必ず背景に退いていくようなもの。「地」の「地」たる所以です。

「地」が<私>を構成するものであるということでしたが、それは、<私>が<なにものか>に出会った結果構成されるものです。その<なにものか>は人間でも、物事でも、物自体でも構いません。何かに<出会っていること>そのことが大事なのです。先日の鷲田清一の本からの引用で学群生たちに伝えたかった(こんな表現も傲慢ですね)のは、このことでした。

例の4番目の母親は、息子に現象では<出会っていても>、世界認識を変化させるという意味では<出会っていません>。きっと、母親の「地」は変更の機会を失ったことでしょう。そう思います。

他人からの呼びかけ<真理要求>に、真摯に耳を傾けること。そして、その呼びかけ(真理要求)に答えること。このことが、コミュニケーションであり、他者理解(完全なる理解は不可能ですが)への一歩だと思うのです。漸近線みたいなイメージです。

果たして、私は鈴木さんの呼びかけに答えているのか、つまり<出会って>いるのか、そんなことを考えました。

粗雑な論理と、まだまだ吟味されなくてはならない前提と語調でした。 おつきあい有り難うございました。

なお、このメールは鈴木さんのホームページへの寄稿を読んでの感想でした。


 これはおそらくは「変わらないままに変わってしまっている」とか「みんなの心に何かを響かせる」なんていう、僕のペダンチックな言い回しに、素直に反応してくれたのだろう。ちなみに、現象学と言う学問は、難しい字面だけれども、何の事はない、僕らはどうやって他人の事を理解するの??っていう事を真剣に考えている学問で、僕らが日常に出会う普通の体験、「あなたには私の気持ちがわからないのね!!」っていうような事がなぜなのか、って考えている学問です。結局他人の事は究極的にはわからんのちゃうかなあ?けどやっぱりなんかそこにあるんちゃうの?そういう感じ。(専門家には確実に怒られる解説)

 ここで書いている「出会う事」最近はエンカウンター、なんてカタカナで書くことも多いけれども、それこそが世界を変容させる最大の契機だということは、僕も実体験で理解している。

 分かり合えないからこそ、われわれは人を好きになれるし、人に心揺さぶられるし、人から暖かいものを得られるし、いや、人だけではなくて、ナチスの強制収容所で窓から見えるマロニエの木と「出会った」フランクル(哲学者)のように、すべてのものと出会う事ができるだろう。

 すでにわかっているものと出会うことは「出会い」ではない。それはつまらない繰り返しであり、わかりきった退屈である。それは意味ある出会いではない。知らないからこそ、分かり合えないからこそ、その出会いは新鮮であり、自分にないものがそこにあり、どういう風にか知らないけれども、自分を変えてくれるのだ。

そして、人間とすら分かり合えないとするならば、犬とでも、猫とでも、魚とでも、石ころとでも、マロニエの木とでも、分かり合えない事は同じだ。それならば、われわれは、ありとあらゆるものと出会う事が可能なのだ。

わからないからこそ、わかろうとする。これもどこかに書いたな。
 しかし、失われた週末にそのチャンスすらもう与えられず・・・

で、話は変わって、東京の風景を描き出す写真。最近特にそんなCDジャケが多い。前項にも書いたけど、さらにイースタンユースもそうだった。初恋の嵐(バンド名)もそうだった。くるりも京都の街だけれど、そんな感じ。

こういった写真の何がいいんだろう?それはたぶん、その写真で「日常生活」が切り取られるから。しかも、それが「世界」から切り取られ、たとえばCDジャケに使われたりすることで、その写真は日常から半歩異化され、新しくこちらに訴えかけるものを持つようになり、また美しさを帯びる。音楽と組みあわされたり、写真集として構成される、というそのコンテクストがわれわれの当たり前の生活を支える「日常世界」を新しく見せるのだ。 日常の世界と言うのも、また、私の思考のテーマであるだろう。平凡な毎日とは何か?劇的な人生とどう違うのか。劇的とは何か?そこに読み込まれる劇=ストーリーとは何か? 一日中、考え続けてしまう僕には、毎日が劇そのもので、毎日が長くて、一年が長くて仕方がない。30を過ぎると一年が早い、と言われるが、ぜんぜんそんな事がない。振り返って、長かったなあと、20代の頃から、思い続けてきた。まあ、おそらくは学生〜大学教員と、考える時間をたっぷり与えてもらっているからなのだろうし、そういう職業に今いるのであるから、それは幸せな事なのだろうな。けど、考えすぎて、自家中毒に陥り、しんどい事は長く続き、嬉しい事は一瞬で過ぎ去り、これは何なんだとまた考える。

 オリエンテーリングでも、長い努力の果てに、すばらしい瞬間は一瞬にして過ぎ去った。すばらしい瞬間を味わえただけ幸福なのかもしれないが、しかし、まったく、それをつなぎとめられなかった。その瞬間に向けて組み立てられるストーリーは、お話であればそこにエンドマークを置けるけれども、われわれの生は終わらない。

 Lost moments gone forever......


15.精神論を超えて、合理主義を超えて、まあええんちゃうに至る

ところで、前のセクションにも書いたが、私の考え方の非常に大事な要素をここで簡単に書いておくこととしよう。「精神論」について。

僕は決して「根性」とか「気持ちで勝つ」とかいう、そういう話は嫌いではない。かつて学生のころ、僕は「熱血」と呼ばれていたぐらいだから。だけど、ある面恐ろしく合理的な考え方も持っており、徹底的なプラグマティストの側面もある。

そして僕がいろいろな面でユニークであれるとすれば、それはこういった相反する二要素の奇妙な結合にあるのだろう。そのあたりが普通の、そのへんに氾濫するわかりやすい嘘と僕の言葉を区別してくれている。

根性だけでは勝てない。根性を合理的に使いこなす。けど最後は根性だ。けど技がないと絶対にどうにもならない・・・。こいつらも、いつものごとく、単純な二元論では処理しきれない、そういう複雑な世界に属する。

「根性」といって、それで勝てそうならば「根性」でがんばればいいんだ。「合理的」にやってそれで勝てそうならば「合理的」にやればいい。なんかガチンコの世界に入ってきたぞ。あの番組は始まったときからかなり見ている。非常にいい勉強になる。ミシェル・フーコーの言うdisciplineの為され方の非常に優れた現場の症例だし、暴力を飼いならすメソッド、そこに常に介入している「カメラ」という巨大な他者の存在との関係、などなど、僕の研究テーマに完璧にリンクしている。最終的に、すべてが予定調和的に、現代社会における一つのモラリッシュな型にはまり込んでゆく様は象徴的である。

閑話休題、科学の世界は真理か真理でないか、つまりは「真/偽」がわれわれの知のあり方を最も根底で規定するカテゴリーであった。だが、相対主義的、プラグマティックな、構造主義以降の思考を取る時、真理は人間の数だけ存在するし、いろいろな場所に真理がそれぞれあり得るし、いろいろな時代によっても真理は変わりえるし、決して普遍的な真理などない。

この立場に、仮に立つのであれば、ここで重要なのは、「真/偽」ではなくて、それを真理であるとわれわれが信じるか否かである。信じることによって(いや、信じる以前に、完全に刷り込まれることで)相対的な真理が絶対的な真理であると信じられることになる。であるからむしろ信じるか疑うか、「信/疑」こそが実はわれわれの知のあり方を規定している最も重要なカテゴリーなのだ。科学的思考とは一皮むけばこのようなものに過ぎない。そして、「信/疑」の世界においてわれわれを規定する価値基準は「使えるか/使えないか」という功利的な基準である。「なぜ科学が真理だと信じるの?」「そのほうが使えるから。」

何が言いたいのか、信じるものが勝つ、というのは、非科学的なのではなくて、科学的な思考自体を生み出す源泉であるということ。いや、むしろ、非科学、科学、双方を超えた、メタレベルの=上位の思考であるということ。そこではわれわれはそれが使えるかどうか、という一点で何を信じるかを決めればいいということ。そしてこのような思考方法は、結果を求められる(例えばスポーツの)世界において、使える、こと。 根性が合理的であろうがなかろうが、どうでもいい。使えるならば使えばいい。リレーで走っている選手に応援の声なんて届くわけがない。けど、そう思う事が何かのプラスになるのなら、そう信じればいい。合理的な努力をする、と決めたが故に、非合理な事をしない、別にそれでよければそれでいいが、非合理なものでも、使えそうなら、やってみればいいのだ。

科学的トレーニングと言われるものは、10年経てばまったく逆の事がいわれるようになるので、僕はひとつも信じていない。けど、使えそうなものとか、面白そうなものは、なんかちょっと気分を変えるために使う。また、非合理的な努力が僕はあまり好きではない。特に、団結を促進せんが為の掛け声、チームワークとか、そういう精神論は嫌いだ。だが、案外、自分がそれでホッとする事もあり、また選手たちがそれでやる気になるのなら、どんどん取り入れればいいと思う。

これは一言で言えば、適当、そう要約されてしまうのかもしれない。けど、おそらく、こういう言葉は今のところは選手たちには新鮮に響くはずだ。達観しているようで、熱血している、そんな感じをとりあえず去年は目指していた。
「まあええんちゃう」、というのはその姿勢を最も象徴する言葉だと自分で思う。


16.男子チームに話を戻そう −走順・セレクション

さて、そろそろ本筋に戻らないといけない。だけど、いろいろな事が断片的に記憶に浮かび上がってきても、その時系列がぐちゃぐちゃなので、以下は、必ずしも時間順ではないこともあろう。ご容赦ください。特に、秋のシーズンは、あちこち車で連れて行ってもらったのは覚えているが、どの大会が誰の車であったかとかが今ひとつはっきりせず、逆に混乱してしまっている。福澤の車はいつだっけ??帰り、かなりいろいろ聞かされたときだ。記憶が鮮明なのは、高橋の車で本セレ、ん、怪しいぞ??秋合宿ってあったっけ?日光でやったよな??しかし記憶にない。宿はどこだっけ? なので、覚えてる重要な事だけ書く。

いちばんに書くべきなのは、男子のチームを本格的に考え始めた事。これにはひとつのきっかけがあった。大学会館の一階で昼飯を食べていたとき、橘先生と話をしたのがそれだ。優勝した富士の話を聞き、そのチームと似ているとうことを知ったおかげで、自分のなかでの決断がついた。本番の走順はその時にすでに第一候補として決定したのだ。これは秋の始めだったと思う。けっこう早い時期から決定していたということ。

もちろん、その他にもいくつか候補は考えた。けれど、おそらくは本番の走順がいちばん良い順だろう。これは、選手たちがそれぞれの走順に耐えられるランナーになるようにチーム作りをしていく、そういう方針だ。選手の中からチームを立ち上げてゆくのではなく、逆に理想を設定しておいて、そことの距離のなかでベストの選択をしてゆく事。

例えば、その時いちばん不安であったのは佐々木だった。最悪の場合、佐々木がセレクションに落ちる事も考えられる。彼を1走で使えると、チームとしてはベストであるから、彼は何が何でもセレクションに通ってもらわねばならなかった。(もちろん、落ちたら使う気はまったくない。)

佐々木が一度研究室に来たときに、引き留めてそういう話をした。男子選手と個人的に話をしたのはたぶんこれ一回ぐらいだろう。セレクションに通ったら1走で使うぞ、ということ、筑波としてはそれが最高の走順であること、だから頑張って通ってくれ、けど落ちたら使わない、ということ。彼はさすがに不安そうであった。やはりまだ2年生だったからね。しかし、インカレ後の彼を見ていると、あのときのおどおどした姿は見当たらない。あの1走トップは、結果が出たと言う事だ。もしかしたら、こういう談合みたいな事が、セレクションを不公平にしていると感じた方がおられたら、それに免じてお許しいただきたい。

ん、しかし、このとき、もうだいたいセレの上位は決まってて、佐々木―小泉―野口か谷中―増田、とある程度絞られてたはずだな。そうでないとさすがにここまで突っ込んだ話はしないな。となると走順決めたの本セレのあとかな?秋の早い時期ではないのか??そうそう、思い出した。本セレで増田が小泉に勝ったから、増田4走いける、と思ったんだ。そうだそうだ。セレ第1戦のあとだ。

増田と小泉に走順を話したのは、しかしかなり遅かった。これはセレ第2戦の名大大会の帰りの車、あの雪のとき。増田がポイント取れなかったことでちょっと「理想」が崩れる危機を感じたので、その直後に二人に走順を話した(本当は言わないでおこうと思っていたのだが)。この時点で、小泉、佐々木は当確が出ていたから、増田がちゃんと3戦で通れば小泉が2走で増田が4走、けど増田が落ちたら使わないし、走順も大幅に変わる、というようなこと、彼らの反応は、車の中だったので今ひとつわからなかったが、けっこう意外な話だったのかな?

増田の2戦目DNFはちょっと心配ではあったが、しかし、3戦目は大丈夫だろう。小泉と、いちばん不安だった佐々木は通過を決めた。4人目は予想通り野口と谷中の一騎打ちで、けど幸い二人とも4回生であり、どちらが来てもそこそこ計算はできる、ということ(むしろいちばん安心していたぐらいである)、このおかげで、チームの方向は1月の時点で非常に明確になった。セレが荒れると、監督は選手に明確な方針を伝えにくい。去年はセレが順当であったおかげで、セレに早めに通ったメンバーは、すぐさまインカレでの具体的な仕事に向けての準備に入れるし、セレを目指すメンバーも、おおよその自分の収まる位置を雰囲気の中でつかみながらの準備が可能であろう。これはけっこう大事な事だ。去年は早めにメンバーを決めて、それで準備をしっかりする、という方針であったので、それが決まるのはなるべく、早ければ早いほどいいという訳だ。

先にも書いたが、セレの途中で、特定の選手にだけ通った後の話をするのは不公平を招く。だが、このフライングが招くメリットは大きい場合もある。僕はぎりぎりのところで、不公平にならぬようにしたつもりではあるが、もしかしたらそれが故の何らかのマイナスもあったのかもしれない。セレがもう少し荒れていれば――それも良い荒れ方、つまりボーダー以下の選手ぐんぐん伸びてきて、誰が通るのかわからないという場合であれば、決してこういう個人的なことはしないだろう。だが、当確と思われているメンバーがやばい、というマイナスの荒れ方のときには、ぎりぎりのところで監督が手当てをするのは、もしかしたら必要なのかなあ、とも思う。そしてその担保として、落ちたら救済しない、という断固たる姿勢は貫かねばならないわけだ。

 セレにおいて、もちろん公平性は最も追求されねばならない事柄であることは十分承知している。だが、結果を求める場合、時にはある種の談合のようなものが効果を発揮する場合もある。これだから世の中難しい。僕がはじめてインカレでメダルを取ったとき(4年生の団体戦)、リレーメンバーの4人目は上位3人の投票と言う事になっていた。4人目候補は2人だった。セレのポイントでも互角。一人は4年生、一人は3年生、どちらも、代表経験はない。投票すれば、ややポイントが上であった4年生が選ばれた可能性が高かった。が、リレーというハイプレッシャーの場面に耐えられるだけの度量は4年生よりも3年生のほうが上だと僕は思っていたので、セレ終了後監督を交えて上位3人が非公式に集まり、そこで僕が、4人目は絶対3年生だと断固主張し、2対1で3年生が選ばれた。実際に投票はしたのだが、もう雰囲気として4年生には投票しにくい状況はできており、結果は投票以前から見えていたのである。インカレでの結果は京大初の3位入賞であった。
(そうそう、ときどき掲示板に書き込んでいる岡田公二郎はその時のメンバー。)

 これはどうなんだろう??果たしてこれが良い事だったのか、悪い事だったのか?
だがとりあえず、このとき僕は、チームリーダーとして、こういうことをする責任をひしひしと感じていたことだけは間違いなかった。同期で今でも仲のいい4回生を落とすということに対する自分の責任、少なくともそれだけは監督でも他のメンバーでもなく、僕が背負わねばならないことだった。だからといって、僕が彼に何をしてやれるわけでもない。彼は補欠であった、という結果が永遠に残るだけである。責任を背負うなんて偉そうな事いっても、結局はそれは自己満足に過ぎないのだろう。

 セレクションというのは、こういう厳しい場所である。いつも書いている通り、他者がどうにも分かり合えない他者として現れてくる、そういうものだ。彼の痛みを僕は分かち合えない。5人目のメンバーなどと言っても、何の慰めにもなるまい。彼には彼以外にはできなかった「補欠」という場所が、不本意にせよ、与えられ、彼はその時間を自分の存在を持って過ごしたのであるから。いらぬ慰めは、その、彼自身の時間に対する冒涜だ。だから、もしも僕だったら、馬鹿にするな、と思ってしまうだろう。

この、4年生のときのセレクションの経緯は、数年経って、彼にすべて話した。彼は「ふーん、そうやったんか」とだけ言っていた。もうあまりオリエンテーリングはやっていない。このことをどう思っているのかもわからない。