「意識のサイクル/思考のリズム」
 〜手続きを超えて (または、愚地独歩の菩薩の拳)

2001/09/24 鈴木康史

1.はじめに

この原稿は、手続きを精緻に記述してゆこうという試みである。手続きはシンプルなのだけれども、あれはあくまで動作の記述である。その背後にある意識を直接には扱ってないが故に、レースに直接使えないという短所を持っていた。ここで行われるのは、その手続きのサイクルで、われわれは何を考え、いつ何をみて、何を情報処理しているのか、というような、しばしば尋ねられ、しかも非常に答えにくい質問に答えてゆこうとするものである。よく、速い人はいつ地図を見ているのかわからない、と中級者が言う。この原稿はその疑問に答える事となるだろう。端的に言えば、手続きという「動作の流れ」を「意識の流れ」に置き換えてみる、これはそのような試みであり、私自身の意識の流れの記述的な内省の産物である。

2.視認と確信度

きっかけは、2001年の京大の夏合宿だった。そこで、大北が、京大杯の説明中に「視認」という言葉を使った。ちょっと聞きなれない言葉だったので僕の耳に引っかかった。大北の言ったのは、スタート待機所からスタート地区が見える、というほどの意味であったのだが、しかし、オリエンテーリングでは「見える」ということが結構大事なんじゃないかなあ、と思っていた僕は、この言葉は「いただきだなあ」と思っていたのである。

 「見える」ということが実はオリエンテーリングの本質的な部分を構成しているのではないか、と思ったのは、『賭けること』という文章を書いてからである。これまでも、「遠くを見ろ」「きょろきょろしろ」といい続けてきたとおり、「見ること」の重要性は自分でもわかっていたし、オリエンテーリングの世界でもそれは常識である。だが、あの文章を書いて以来、「見る」ということは、もっと深く、本質的な、おそらくは手続きの最も重要なコアであるような気がしてならなかった。見たほうが見なかったよりもいい、という技術のレベル(これはつまり、サムリーディングと同等の、やらなくてもオリエンテーリングができるけど、やったほうがいいというレベル)ではなくて、それなしには手続きは構成され得ない、そういうものではないかと思ったのだ。

 意識の流れの記述において、「視認」はおそらくはもっとも大きなポイントを構成している、なぜなら、その瞬間に99.999999999・・・・・・・パーセントが100パーセントになるからである。愚地独歩の菩薩の拳のようなものだ。すでに原稿『賭けること』で書いたように、絶対にミスしないとわかっていても、フラッグを「見る」までは、われわれはそれを100%とは言い切れない世界に住んでいる。99.999999999999・・・・・ではあっても、100ではない。われわれオリエンティアは、常にそういう不安感を振り切りながらレースをしているのである。これは皆実感している事だろう。

 また、この議論は、かつて、大学3年生のときに、僕自身の一つの転機となった、村越氏に教わったこともヒントとなっている。「見えないところまで見えているようにオリエンテーリングしなくてはならない。」これは、80%を90%に、90%を95%に、95%を99%に、できるだけ近づけるように、地図を見て、方向を維持して、まだ見ぬ先からあの辺と指差せる、そういう風にオリエンテーリングの精度を上げてゆかねばならないということである。そして、このとき理想とされているのが、あたかも「100%=見えている」かのごとくに、という状態であることは、逆に見える瞬間まではわれわれの「確信度」は100にはならないということを示しているだろう。

  昨年度の筑波大学のコーチで、確信/不安の感覚を大事にしろといい続けた。また、各レッグで、どこで現在地を一点に確定するかという事がプランニングの基本だという事も何度も繰り返した。それはこういうことだった。確定点を離れる瞬間に、われわれの確信は100ではなくなる。その確信度をなるべく下げないように、レッグの途中、CPで何度かそれを100にリセットし、そのようにしてレースを進めてゆく。これがオリエンテーリングなのである。そして、リセットとは地図上の特徴物を現地で「見る」こと以外にはない。

 見えること、見えないこと、ここには越えがたい段差がある。知っていることと知らないことの間にある段差と同じである。さいわい、オリエンティアは地図を与えられているが故に、限りなく「知っている」に近づく事はできよう。が、それはあくまでも「予測」「予定」であり、「予定」はどこまでいっても「未定」なのである。それが「視認」できるまでは。

3.意識のサイクル

こういう意味で「見えるということ」「視認」は、大きな認識上の変化をもたらす。フラッグが見えた瞬間、予期した地形が出てきた瞬間のほっとするあの感覚を思い出せばよい。それまでの不安が一気に確信に変わる。つまり、意識の流れにおいて「見える」ということは非常に大きな分岐点をなしているようである。

動作の流れと意識の流れとはその区切られる地点が異なる。動作の流れは、各チェックポイントごとに新しいサイクルにはいってゆくが、意識の流れは「見えた」瞬間に新しいサイクルに入ってゆく。

具体的に書いてみよう。

@次は尾根上の岩だ〈予期〉
Aその方向を見る〈遠くを見る〉
Bまだ見えない
C方向を維持して進む、尾根上が近づいてくる、歩測も近づく
D岩を目で探す〈きょろきょろする〉なるべくはやく見つけよう
E岩が見える〈視認〉
F岩に向う、次はどっち?
G岩に着く、次の方向はすでにわかっている〈予期〉〈動く〉

重要なポイントは、Eにある。岩を見た瞬間に、現在地確認は終わっているという事。岩に実際にたどり着く数メートルか、数十メートルか、前に、現在地は決定しているのである。いや、むしろそのために予期をするのだ。これはすでによどまない手続きとして縷縷述べてきた事だからここでは繰り返さない。

意識の流れはこの瞬間に次に向う。手続きは岩にたどり着いた時点でワンサイクルを終える事となるが、意識はすでに新しいサイクルに入っている。一つのCPが見えた瞬間に、意識上では次のCPへのサイクルが始まっているのである。これは当たり前の事だ。見えた瞬間にはもうオリエンテーリングは終わっているのだから、さっさと次に移るのが得策だ。だが、一つだけ、忘れてはならない事もある。なぜなら見えた時点では、われわれはまだCPにはたどり着いてはいないということ、そして維持すべき方向が変わる地点は原則的にはCPである。そこには、ほんの少しのタイムラグがある。

このタイムラグ、つまりはEからGの間の時間、この瞬間こそが、われわれが最も利用せねばならない瞬間なのである。これはほんの数メートルの事もあろう、数十メートルの事もあろう。だが、この時間というのは、確信度100パーセントが数秒間ではあるが、維持できる区間である。これはおいしい時間だ。その時間は有効に使われるべきだ。「(a)次にどの方向に進むべきか?」「(b)それを現地で視認する」「(c)その先の予期」「(d)念のため、CPのさらなるアイデンティファイ【注1】」このような作業が目白押しだ。これらをいちばんおいしい時間にすませてしまう。これが非常に重要なのだ。

CPが見えて、ホッとしていてはいけない。CPとは実は確定点の終わりである。そこに着くまでのちょっとした区間こそ、確信100%、現地にいちばん気を使わなくてもいい時間なのだ。ゆえに、その時間を使って、なるべく(a)-(d)の作業を終わらせてしまうべきなのである。こうする事で、CPで立ち止まらない、なめらかなオリエンテーリングが可能となる。(もちろん、作業が終わらなければ立ち止まらねばならない。当たり前だ。)

速い人はいつ地図を読むのか。CPが見えた瞬間に、次のCPまでの地図を読むのだ。CPが見えてから、そこにたどり着くまでの、もしかしたらほんの数メートルが、実に重要な意味を持っている。CPにたどり着いたときには次の方向は読み終わり、視認されている。だから止まらずに、すぐに動けるのだ。【注2】【注3】

「予期」も、「遠くを見ること」も、「きょろきょろする事」も、なるべく早く視認し、(a)-(d)の作業をする時間を長く取るために、非常に重要なのである。また、コントロールの脱出がしばしばいいかげんになるのは、おそらくはフラッグが見えるとあまりに嬉しくて、ついさっさと駆け寄って、(a)-(d)をサボってしまうからなのだろう。

 さて、これで意識のサイクルのうちのE−Gについては解説が終わった。では残りの部分で、われわれはいかなることを考えているべきか。実は、時々コーチングでいっていた「ヒマな時間」というのがここに当たる。どんなに厳しいレースでも、「ヒマな時間」は訪れる。だがそれは、マップコンタクトに対する「ヒマ」である。現地、マップに対する集中を少し切ってもいい時間という事だ。

ならば必然的に、集中力はランニングに向わねばならない。なるべくスピードを維持すること、これがこの区間の課題となろう。意識の流れという観点からするとこの部分は「ヒマ」であるが故に、あまった集中は、スピード維持、方向維持、歩測などのある種機械的な作業に振り向けられねばならない。

ただひとつ、予期してるものが出てくるか出てこないかという意識、これは必要だ。僕はそれをドキドキ、ワクワクと表現する。このドキドキ、ワクワクは、少なくとも僕には使える。なぜならこれは、自分の不安感、確信の度合いを容易に、感覚的にわからせてくれるバロメーターだから。こういう気分に敏感である事で、頑張って走って次の特徴物を早く見つけようとするし、見えたもの、出てきたものに対する反応も早くなるのである。

4.ミス、集中、リズム

 さて、では次の話題に移ろう。このような意識の流れを明確にすると、ミスがいかなる形で発生し、それに対してどのように対策を立てれば良いかもよりいっそうわかりやすくなる。ミスは、手続きが抜けてしまう、というような大雑把な原因から起こるのではない。手続きが丸々抜ける、ということはおそらく現実にはありえず、現実にはさらにミクロな、上記のような思考の流れのどこかが抜ける、または渋滞することによって起こると考えられる。

 たとえば、北欧のテラインで対応できなかった自分自身のレースをこの視点から振り返ってみると、当時はわからなかった対応策が浮かび上がってくる。その当時の僕のレースはこのようなものだった。特徴物を遠くから視認する、これが慣れていないテラインであったせいで難しかった。見えたと思っても、それが本当に正しいものであるのかどうか、これに対する不安感が非常に大きかったし、実際違っている事も多く、不安は解消されない。この解消法として、精密なコンパス走を行おうという対策を立てた。もちろんこれは技のレベルでは間違ってはいなかろうが、不安感に対する対策としては、非常に迂遠なものだった。結局、直進ができていても不安になる、できているつもりでできていないというちぐはぐなまま(「技ができているとわかっていること」の重要性はこのときの経験から来る)、なお自分の集中力をコンパスのみに向ける事で、私はテラインに対応できないままに終わってしまった事があった。

 むしろこの時行うべきは、遠くを見て、流れのなかで特徴物をとらえてゆくこと、それによって、確信度を日本のレースよりも一段階上で維持しつつける事、そのためにはこまめに100%の状態を作り出してゆく事、が必要であった。僕は、現地を見ないといけないのに、コンパスにのみ向っていたのであった。

 だが、必ずしも、それだけで対策になるかといえばそうでもない。この思考の流れは、それぞれのランナーの中で、相当に強固に「リズム」を持っている、そのような気もする。【注4】言い換えると、これは「癖」である。それは体に染み付き、なかなかえ変えることができないのだ。たとえば、「走りながら、地図を目の前に持ってきて、サムリーディングの指先を見て、情報を取り込んで、そして現地に目を向けて」という一連の動作がある。この動作に必要な数秒、その間に走る歩数、その間に処理できる情報、これは、各人が意識していない領域であろうが、それゆえに、相当に強固に各自を支配している。たとえば、処理すべき情報が、ちょうどその歩数ごとに出てくるレッグであれば、そのランナーは地図を見て、顔をあげた瞬間に、次のチェックポイントが見えてくる、そういうラッキーが生じよう。逆に、これはしばしば自分も経験したことだが、あまりにたくさん特徴物が連続して出てくる場合、前の情報処理をしている間に、足が進んで、すでに次の情報が出てきてしまっている、などの事態が生じるのである。どれがどれだか分からなくなるのは、たいていはこのような形である。

 優秀なランナーは、おそらくは、この自分の思考のリズムをテラインに柔軟に対応させ得るランナーであろう。たとえば、現在地を流れの中で確認する(注1参照)ためには、ある一定の時間、距離が地形に応じて必要である。このときの一連の流れ、すなわち、走るにつれて地形が過ぎ去り、新しい情報が姿をあらわす流れ、たとえば「この尾根の向こうに鞍部が見えるはず、見えるはず、もうちょっと巻いたら見えるかなあ、まだかなあ、この斜面巻いたら見えるかなあ・・・・ああ、やっと見えた」というような流れ、それにはそれだけの距離を移動することが必要なのだ。この「距離―時間」と思考のリズムの時間が合っていれば、われわれは必ずしもストレスを感じずに快適にオリエンテーリングをする事ができよう。だが、これがリズムに合わなかった場合、われわれはリズムを変えてゆかねばならない。

今の例のように大きく尾根をコンタリングしている場合、尾根をじゅうぶんに巻いた、と思っても、さらにその向こうに巻くべき斜面が次の瞬間に広がる事は、誰もが経験しているだろう。傾斜変換かなあと下から眺めていたら、それは単なるテラスで、さらに上に傾斜変換があった、などということもあろう。たとえば良くある、待ちきれなくなる(たとえ歩測をしていても、ついイライラする)という状況は、おそらくは、ランナーの「リズム」が情報処理をしたくてしたくて、待ちきれなくなってしまっているのだ。まだ出てこないという不安、これであっているのかという不安、それを早く確認をして解消してしまいたい、という、オリエンテーリングの論理を超えた強くひそやかな欲望。それを押しとどめること。このようにして、思考のリズムは、意識的に、テラインに応じて、変更させられねばならない。もちろん、先にあげた微地形の例は逆に、それがあまりに早く出てきてしまって、われわれは、先に進みたいという、これまた強い「足」の欲望を、情報処理にかかる時間を捻出するために、押さえてゆかねばならないのだ。

5.おわりに

このように、意識の流れは、最終的には、われわれが気付いてはいるが、対象化していないある種の欲望(早く進みたい、早く確認したい)を如何に押さえてゆくか、それと表裏一体の、これで正しいのかという不安感を如何に解消してゆくかというニ点に収斂する。早く進みたいという欲望を、明確なプランニングで制御する、早く確認したいという欲望を、明確な手続きの遂行によって制御する、不安感を明確なマップコンタクトによって解消してゆく、こうして、さまざまなメンタル面の課題は、技術的な課題と一体となる。いや、むしろ、それらを分けてしまっていたわれわれの二元論的な思考自体が問題であったのだろう。人間とはそう簡単に記述できるものではないし、易々と分割できるものでもない。

だが、これらのメンタル面をわれわれは必ずしもオリエンテーリングにおける技術的な方面から意識化してこなかったが故に、結局これらは「精神的」といわれるカテゴリーに括られてしまっていた。あせらない、落ち着く、そして「集中」・・・さまざまな言葉で語られるメンタルな対策はもちろん必要な事柄であるが、しかし具体性・客観性・応用性を欠く。むしろメンタルとは手続きとひとつながりのものなのだ。これらは「技術」のカテゴリーからも語り得るのである。そして、手続きをこのように意識の流れからとらえなおす事で、われわれは「何に」「いつ」「どのように」「集中」すればよいのかを具体的に知る。しかもそれらは、意識して練習を繰り返す事で、かなりの部分自動化し得る。おそらく、本原稿で提示した「具体性」はレースのときに有効なのではなく(考えてたら遅い)、トレーニングやアナリシスにおいて、たとえば僕が提唱している日常の基礎技術トレーニングにおいて、内省の目を精緻にし、「何に」「いつ」「どのように」「集中」すればよいのかを反省し、体で覚える事につながるのであろう。

最終的に、この議論は、こうして、日常の練習の必要性という、今まで言い続けていた結論に達する。だが、以上のような精緻な真理の腑分けをする事で、われわれはこれまでよりもいっそう、自分の意識の深層に達する事ができる。その深層とはもはや、ある種「無意識」の領域に属する、意識化しにくい「癖」の領域であり、それゆえに、表層の技術論からは無視され、同時に、「無意識」「癖」を射程に入れていないこれまでの「心理学」的な言説によって中途半端なままに放置されてきた。こうしたエアポケットをとりあえずは明確に記述し、そこに至るアプローチの一端を示す事、本稿の目的はそのようなものであった。そして、このレベルに至ることで、われわれは「集中」を「技術」的に遂行してゆく、という作業を明確に成し遂げる事ができるようになるのである。


【注1】
現在地確認は、遠くから流れのなかで、移り変わる風景のなかで行うほうが、一点に立ち止まって確認するよりも正確で確実である。早くから情報を収集している事で、見えたもののアイデンティファイはいっそう容易になろう。その場に行ってからでは、かえって情報がないということもしばしばである。たとえば、地形は、遠くから見るほうが良く見え、全体がつかめる事が多い。またさらに何故かはわからないが、流れのなかでのアイデンティファイは、直進技術への信頼とあいまって、思っている以上に容易であり、ある種直感的にあれだ、とわかってしまうものである。これが「リズム」である。不思議なものだ。

【注2】
もちろん、それをさらに前倒しして、道走りなどでいろいろ読み切っておくということができるのならばそれに越した事はない。だが、現地でそれらを視認する事(現地と地図の対応)は現地でしかできない。さらに細かく言えば地図からの情報収集はいつ行っても良い((a),(c)の作業が減る。おそらくは多くのランナーはそうしているだろう)。だが、オリエンテーリングで重要なのはその情報と現地との対応(b)だし、それはこのような意識の流れの中で行われる以外にはない。また、さらに、レース中の意識をもっと精緻に内省してみれば、地形にもよるが、CPが見える瞬間というのは、おそらくはその先のガイドラインも同時に見える瞬間である。そして、目指すべきガイドラインがちゃんとあるという事から逆に(d)が確認されるし、その瞬間には、われわれは(c)のみを行えばよい。このように、手続きはよどみなく流れる。

【注3】
いうまでもないだろうが、コンパスセットも、これと同様の流れである。コンパスセットにおいては「視認」の重要性はすでに散々説かれている。

【注4】
アナリシス添削について書いたときに「シンクロする」という表現をしたことがあったが、このときシンクロする相手は、もしかすると相手のこの思考の流れである。オリエンテーリングのリズムが良い、というのは、おそらくはこの思考が自分の型どおりに、ペースよく流れてゆく事を指している。リズムの良いアナリシスとは、思考の流れが一定の濃淡でもって記述されているものである。