27歳
鈴木康史

これは恥ずかしい。

1994年の文章。ペナルティ110号に載せた。関西学連の機関紙にも載せた覚えがある。学連の理事か何かをしていたので。僕のありのままっちゃあ、その通りだが、恥ずかしすぎる。

けど、もうはっきりとは思い出せないけれども、27歳はなんか大きく精神的に「変わった」気がした年令だった。いわゆる「自意識過剰」と形容される、甘っちょろい世界ではあるんだろうが、それでもちょっとはリアリティとの折り合いがつけられるようになり、プラグマティックな世界に足を踏み入れられるようになってきたのだ。世界が「見えて」きた気分だった。

こういった近代特有の自意識を抱え込んでしまった若い奴らが、一段階吹っ切れる年令が27歳ぐらいなのかなあという気がする。自意識のうずまくロックの世界では、27歳前後で死んだ奴らがやたらと多い。ジミヘン、ジャニス、ジムモリソン、ティムバックリー、カートコバーン・・・奴らは吹っ切り損ねたのだろうな。

こういった近代的自我は病気だ。日本でも、夏目漱石という大番頭に始まり、えんえんと続くインテリの病である。最近三四郎を読み返した。昔は退屈だったのに、今はめちゃくちゃ面白い。うだうだと理屈を捏ね回して言い訳ばかりしてる主人公は僕そっくりだ。身につまされる。漱石は良くあんな恥ずかしいものを世に出したなあと思う。それも何作も何作も。それに比べりゃこんな文章まだまだ。

というわけで、結構僕の原点っぽいから、公開します。(文化論的部分は若気の至り。勉強不足。)

なお、ボーナストラックとして、最後に、未完の30歳の文章。尻切れトンボ。筑波に来て一年目の冬のもの。実はちょうど引退を決める前後のものであると思われる。心境の変化に戸惑ってる自分がいる。このあたりは、「筑波の5年」でもそのうち触れる。


27歳
鈴木康史のドイツ・チェコ遠征記

 もう27才になってしまった。この2年間を人生でいちばん刺激的な2年間にしようと、体育の大学院に入るにあたって、考えていた。

 やはり今回の遠征は刺激的だった。5年前の北欧はまるでモハメド・アリのKOパンチのように僕にガツーンとショックを与えた。しかし、今僕は27歳である。この5年間の僕は、全然変わらないままに、まったく変わってしまっていたことが、今回の遠征でよくわかった。まるで今回の遠征はボディブローだ。じわじわときいてくる。わたしはこの2年間で何をしようというのか?僕の人生を変えたオリエンテーリングがその西洋文明の深さを持って、再びわたしの目の前にたちあらわれてきたのである。

 今回の遠征には2本のテープを持っていった。海外にわざわざウォークマンなんて野暮だよ、と思って持っていくつもりはなかったのだが、ぜひとも持っていきたいアルバムがあらわれたからだ。そのアルバムの主も、この2年間で、音楽に、再び、真正面から向っていっている、僕よりひとつ下の男である。

 同じ音楽を聴いて、同じ本を読んで、同じ時代を送ってきた同世代たち。彼らの表現は、わたしを打ちのめす。小沢健二の「LIFE」を、ちょうど阪大・奈良女の夏合宿の時から、もう毎日浴びるほど聴いていた。小沢は僕だった。これほど深く心に入ってくる「うた」は久しぶりだった。

 《ふてくされてばかりの10代をすぎ分別もついて齢をとり/夢から夢といつも醒めぬまま僕らは未来の世界へ駆けてく》

 《ぼくはずっとずっと1人で生きるのかと思ってたよ》

 《たぶんこのまま素敵な日々がずっとつづくんだよ》

 小沢のラブソングはもうラブソングではない。君が好きだ。君と一緒にいたい。なんていう陳腐で、しかしいまだに力強い言葉が、こんなに新鮮に響くなんて。

 そう、たぶん、このまま素敵な日々がずっとつづくんだ。僕の素敵な27歳は、終わってしまっても永遠なんだ。そんなむちゃな断定が僕の心と共振する。

 だが、日本を出る前にあれほど聴いていた「LIFE」は、ヨーロッパには妙にそぐわなかった。90年代日本のストリートミュージックがドイツにそぐわないのは当然なのかもしれない。まったく世界に歯が立たない僕、世界に歯が立たない日本のロック、そんな姿を象徴するかのように、小沢の歌は、大陸では妙に白けて聴こえた。

 だが、もう一本のテープに入っていたニューエストモデルの「杉の木の宇宙」という曲は、僕を救った。チェコのリレーの待ち時間(アンカーだった)、世界に歯が立たない日本チーム。何をしにきたのかわからなくなりかけた2時間、ともすると卑屈に、卑屈に、惨めに、孤独になってしまう僕を支えたのはこの曲だった。何度巻き戻しをしたかわからない。

 アイルランドの至宝、歌手と名のつく人間をすべて集めてきても5本の指に入るだろうロック界では最高の歌手、ヴァンモリソン。ニューエストモデルの中川敬はその壁に挑んだ。ヴァンの名曲Redwood Treeは、極東の島国の、一人の日本人によって、まさに、生まれ変わったのだ。

 《子犬を連れて、虹探しに行こう/日めくるごとに少年は、何かをほどいた/川べりを抜けて、荒れ野を駆けめぐり/襲いかかる夕闇に、すべてをあずけた》

 《林道の脇で、子犬とはぐれたまま/秒刻みに少年は、何かをほどいた/降りかかる孤独、闇の継ぎ目を走る/襲いかかる草の音に、不安をあずけた》

《おお杉の木よ、傘下に入れとくれ/小さな瞳、木陰から宇宙を感じてた/吹きつける風と、雷の予感/叩きつける雨から、守っておくれ杉の木よ》

見事な日本語への訳詩。ヴァンの少年時代を思わせるノスタルジックな英詩が、一人の少年の成長譚として日本語で力強く生まれ変わっている。明らかにニューエストモデルのヴァージョンのほうが上だ。日本の勝利である。

虹を探しにいった荒野で少年は自由を得る、しかし引きかえに襲いかかる闇と孤独。力強く守ってくれる杉の木の下に今は少年は隠れているけれども、彼はそこから宇宙を小さな瞳で見ている。その宇宙へいつかは出てゆかねばならないことを、少年は知っている。 僕はこの少年だ。虹を求めてきたのこの世界の舞台で、それと引き換えの孤独に耐えるのは当たり前のことだった。いつまでも杉の木の下にいることはできない。そのリレーで、トップのゴールと同時にタッチを受けた僕は、立派に、最下位近い順位を、自信と誇りを持って、守った。

そういえば、中川敬も、年齢は僕とあまり変わらないはずだ。

*   *   *   *   *   *

27歳というこの年令で、このような経験ができたのはすばらしいことだった。この年令にふさわしい、この年令でなければできない、そんな経験ができた・・いや、もっと正確に言えば、ワールドカップやトレキャンに27歳の僕がたっぷりと反応した。

外の世界は触媒だ。その触媒に、それぞれの人がそれぞれの反応をする。僕は深い反応が起こるだけの経験と、少しの人生のコクを身につけていたのだ。

本当に、深い経験をすることができた。5年前の北欧が子供の遊びのように思われる。

*   *   *   *   *   *

ここで皆さんにお礼を述べさせてもらいたい。まずは阪大と奈良女の皆さんに。あの合宿は非常に役に立ちました。入江、加賀屋、国沢の3人までが体力切れを起こしたクラシカルで、全然持久力に不安を感じなかったのは、あの八ヶ岳のトレーニングのおかげです。君たちが横にいて、わいわい言ってくれないと、一人であんなつらいことはできません。どうもありがとう。

それから京大・京女ならびにOB・OGの皆さんには、いつものことだけどお付き合いありがとう。僕がここまでこられたのは、君たちのおかげです。

そしてわたしが教えている選手たち、君たちが僕のような男を信じてついてきてくれていることは、何度僕の心を救ったか知れません。胸いっぱいの愛を君たちに。

*   *   *   *   *   *

《月が輝く夜空が待ってる夕べさ 突然ほんのちょっと誰かに会いたくなるのさ/そんな言い訳を用意して 君の住む部屋へと急ぐ》

この小沢の曲を何百回と聴くのも、ドイツに遠征するのも、オリエンテーリングを明日も必死にやるのも、すべて、こんな「27歳」なんていう文章を書いて言い訳しないと落ち着かない。

僕はそんなもんだ。

                         1994.10.30. am 2:40


【未発表原稿】

この間とうとう30歳になりました。普通ならばこの区切りのいい年で何か感慨めいたものがあるのでしょうが、僕は全然なにも感じませんでした。確かにもう30歳かということは時々思いますが、基本的に気が若い人なので、今でも大学生たちとお友達のように遊んでいます。

30歳よりは、27歳の方が、実は感慨深かったような気がします。27歳という年齢は何か一つの転機が、多くの人にあるのではないかな、少なくとも、僕の知る「何かをやっている」人たちの作品とか、生き方を見てると、27歳という年齢は、その表現が一つ突き抜ける年齢のような気がします。僕自身27歳で自分のオリエンテーリングが技術的にも精神的にも一つの成熟の域に達したことを実感しましたし、それを形にすることもできました。

それから3年が過ぎ去りました。振り返ってみて、何と自分は遠くにきてしまったことかと思います。筑波に来たこと、オリエンテーリングへの灼けつくような感覚がなくなってしまったこと、そして自分の将来の方向がやっと見えてきたこと、など、ほんの3年前には想像もしなかった自分がいるのがなんだか信じられません。27歳の秋のワールドカップで初の世界大会、3月全日本3位、ついに念願の世界選手権代表決定、しかし大会直前の故障とぼろぼろだった世界選手権、半年の治療、修論、筑波合格、4月一人暮らしの開始、夏のユニバーシアード、ワールドカップ、そして今に至ります。

思えば、今年の夏のヨーロッパが、非常に印象に残っています。ずっと目標にしていた世界選手権に出られた満足と、本番での最悪のレースとに引き裂かれ、悶々と過ごしてきた世界選手権後の一年間が、何だか吹っ切れた、そんなヨーロッパでした。3年目の遠征で、ヨーロッパ暮らしにも慣れ、余裕を持っての1ヵ月の生活は、何というか、「生きてゆく」ことを深く体に染み込ませてくれた旅でした。人間は本質的に、「ねばならない」ものは何も持っていないのではないのか?たとえば、お金を儲けることと、山で寝っころがることには何の差もないのです。論文を書くのも、爪を切るのも、全ては同じであって、それを自分が「選び取って」やるという実感を持つことこそが、その行動自体よりも大切だろうなと、そんな実感が、(未完)