筑波の5年 (その4、2001年8月7日受信)
鈴木康史

9.話題が逸れる→コミュニケーションの寂しさ、「バキ」、世界は自分のためにあると思うこと、裏づけのない自信を持つこと、について

 こうして、いろんな選手にシンクロする修行を積んで、僕はまた自分自身のオリエンテーリング観を深めることができた。その成果は、もうすぐ行われる鈴木合宿で配布予定の新しい原稿に反映されることだろう。だが、こういう話ばっかり書いていると、みんな覗きに来てくれなくなりそうなので、話を面白いところに持ってゆくことにしよう。

 ただし最近ちょっとブルー。こういう原稿を書きながら言うのも変だけど、筑波に残っていればよかったのかもしれないなんて思ってしまったり・・・。人生の選択は難しいね。就職したのはいいんだけれど、心残りもたくさんあるしなあ・・・。

その心残りの中には、もちろん、愛好会をもう一年見たかったというのもある。
昨日も新宅からアナリシスが届いた。みっちーからも定期的にアナリシスが来ているが、正直、会えないままにコーチするのは、やはり選手の「息遣い」とでも言うべき何かが感じられない分、どうにも不十分だ。近くにいて、会えるということはやっぱり大事だね。携帯とかメールとかHPとか、コミュニケーションツールはいっぱいあって、便利になってはいるけれども、「新着メールはありません」というメッセージが引き起こすかすかな寂しさは、われわれの新しい寂しさだ。そして、そのようなツールがなければ存在しない新しい寂しさが、新しいコミュニケーションの欲望をかきたてる。ここでは、形式が内容を凌駕している。テクノロジーの変容が、新しい主体のあり方を作り出し、われわれはどんどん飢え、欲望してゆくことになるんだろう。テクノロジー自然主義。

だけど、残念なことに、他者はいつまでたっても他者でしかなくて、その飢えは絶対に満たされることはない。あなたの心はいつまでたっても不可解なままで、わからないものはわからない。語り得ないものには沈黙を。そう言い切ってしまわねばならない業の深さ、悲しみは何にも勝る。たいていの人間は、僕も、そう言い切れず、常に飢えている。

その飢えを満たすために、社会を駆け巡る情報のスピードと刺激の強度はどんどん増してゆく。「バキ」は週に一回の定期的な刺激で、連載、ということころがミソだ。しかも、連載が進むにつれ、その刺激の強度を増さねばならない宿命は「北斗の拳」から変わらない。どんどん現実離れする登場人物にいかにリアリズムを与えるかが作者の腕の見せ所。ストーリーはどうでもいい。突っ込みの対象にしかならない。一個一個の絵の強度が重要だ。

メディアスポーツの隆盛も、この「強度」の欲求による。見る側はどんどん強い刺激を求め続ける。だが、僕は自分でやるスポーツのまったく別の刺激を知ってしまっているので、あまりスポーツは見なかったりする。見るよりもやること、メールや電話よりも会うこと、そういった原初的な刺激が、やっぱり根源にあるのだろう。会って話をして・・・に勝るコミュニケーションはとりあえずはない。それでもわからないものはわからなかったりするからつらいんだが。

 けど、今度の合宿は非常に楽しみだ。顔を会わせること、不完全でも何かは伝わるんだと思う。そう思うことこそが希望だし。

ばりばりエリートというわけではない何人か、たっちーとかおとうさんとかまで来てくれるのは、本当にうれしい。そういった中でみんなが活動しているわけだから、やっぱりみんなの雰囲気とか、そういうのはものすごく大事だよね。

だけど、猫さんがこんなの作ってくれたおかげで、思わぬ人からメールが来たりする。それはいいなあ。良し悪しなのかなあ。まあ、仕方ないか。もう筑波時代には戻れないしな。 とにかく、時間はどんどん進んでいくし、「やっちゃったことに後悔するよりも、明日を見ていきましょう。」ということだ。

そういう思考は、なかなか難しい。本物のPositive Thinkingは、相当に難しい。

その一番すごい人はニーチェだ。「強度」の話もニーチェがらみ。

そういえば、昔々、大学6年生ぐらいのときに書いた原稿がある。このページにアップされるだろう。僕のスポーツ心理学の要諦は「自分を中心に世界が動いていると信じること」「裏づけのない自信をもつこと」。大学でも同じタイトルの講義を持っているけれど、とうてい理解されないので、全然別の話をしてしまった。これは相当におかしい。だが、真髄。少なくとも僕にとっては。人と同じでは、同じところまでしか行けない。人と違っているということについて、僕はかなり耐性があるのだ。

そして、ニーチェも含めてこういうことについて噛み砕いて説明してくれている人がいるので、ここで引用しておこう。

運命愛

ニーチェの不可解きわまる思想のうち、私がごく最近了解し始めたことがある。
それは「何ごとも起こったことを肯定せよ。一度起こったことはそれを永遠回繰り返すことを肯定せよ」という「運命愛」と名づけられている思想である。つまり、私に起こったことすべてを「私の意志がもたらしたもの」として捉えなおすことだ。私が他人から嫌われ、排除され孤独に陥っているとしよう。

「運命愛」とは、こうした場合そもそも俺が悪いんだからと泣き寝入りする態度ではない。何もかも自分のせいにして安堵する怠惰な態度ではない。この運命は自分が「選び取ったもの」だと――無理やりにでも――考えてみることなのだ。自分が孤独になったことは誰のせいでもない、ほかならぬこの俺(私)が自分の身にもたらしたものなのだと――無理やりにでも――考えてみる。この意味で、孤独を完全に肯定することだ。すると、孤独の苦痛ははるかに軽減する。やせ我慢ではない。こうした状況はまさに自分が臨んだ野田、と思ってみることである。そして、それまでの自分の行動を点検してみるがよい。いかに、自分はこの状況を作ることに加担してきたかがわかってこよう。

ここに重要なことは、いかなる状況もそれ自体として善でも悪でもないということ。いかなる状況も、当人の考え方によって善も悪にもなりうるということである。友人も恋人も去ってしまった。自分は今全身がヒリヒリ痛いほど孤独である。家族も同僚もいる。しかし、自分は何の人生の手ごたえもない空虚な生活を送っている。毎日がサラサラ指のあいだからこぼれる砂のように味気なく過ぎてゆく。他人の中ではつい陽気にふるまってしまう。しかし、独りになると恐ろしいほど孤独なのだ。こう感じている人がいるなら、今の状態を百パーセント肯定しなさい。あなたの孤独は、あなた自身が選び取ったものだということを認めなさい。そして、その(表面的な)不幸を利用し尽くしなさい。それは、とても「よい」状態になりうることを信じなさい。

『孤独について』(中島義道著、文春新書)14-15ページ

 たとえば、すべてが自分を中心に回っていると信じること、理性ではそんなことありえないとわかっていても、感覚的には100パーセント納得できてしまう、僕にはそういうところがある。大きなミスをしても、そして理屈ではもう駄目だとわかっていても、心のどこかで、もしかしたらいけるかも、って思えるのである。ここには何の裏づけもない。ただ自分に対しての純粋に奇妙な信頼がある。自分を信じているわけではなく、自信があるわけでもない。それは、最後には何でも何とかなるだろう、っていうような奇妙な信頼としか言いようがない。負けたって死ぬわけじゃあない。スポーツの世界は次がある甘い世界だからな。

 だからここは真/偽の世界じゃない。信/疑の世界。そして信じるものが勝つ世界。

 こういう楽天性は性格なのか?それとも鍛えればなれるのか?よくわからないけど、こういう人は勝てる、それだけは真実かも。

 「己の正拳を持ってすれば地震をも止められるッッ、おそらく勇次郎は地震がとまったことも偶然とは思っていないだろう。一点の翳りすらない地上最強への自負ッッ、バキよッ、おまえは己の強さへそこまで確信が持てるかッッ(ストライダム)」(ッッの入力がめんどくさいぞ)


10.カルチャーショック2

 というわけで、本筋に戻る。カルチャーショックの2。ご多分に漏れず、女性問題だ。どう、面白そうでしょう??しかし、ぜんぜん話が前に進まない。ドカベンかスラムダンクか。今日の話も最初のミーティングの時の話だったりする。

 そのミーティングで、何度も書いたように「愛好会員全員でインカレに臨む」という目標が掲げられたが、その全員とは誰?僕の目から見れば、そこに女子が入っていないような気がしていた。僕が頼まれたのは「男子オフィシャル」だったし、彼らがいう「チーム」とは「男子チーム」であった。男女お互いのセレクション方法をお互いが公式には知らないようだった。

昨年度に限って言えば、女子のセレがあまり良いやり方じゃなかったのに対して、チェックを入れられなかったことが反省点なんだろうけれど、そういったチェック機能みたいなテクニカルな問題以外にも、男女があまりに別れてしまっているのは、どう考えても「損」だ、と思ったのだ。これは良い悪いの問題ではない。何より、それでは愛好会員全員が、男女にかかわらず全員で納得して、代表の男女チームを送り出すことができなくなってしまうだろう。それではもったいない。インカレの時には、こういうことこそが大事になってくる。下手だなあ、そう思った。

実際、オフィシャルとしてやっていく時に、妙な感覚はあった。たとえば、いろいろな大会の予習、反省のミーティング。当然同じ大会に出るのだから、女子も参加したほうが「得」だろう??そこにわざわざ妙な壁を設けないほうがいいのになあ。何人かは自発的に参加してくれてたからいいんだけれども、けど、低くても壁がある、それはやっぱり無駄だし損だ。


11.セレクションと腹を括ること(また話が逸れる)

 これに限らず、いろいろと損するところはある。たとえば、インカレの話に戻ろう。インカレの選手の選出方法をオープンなものにする必要性にはさまざまな要素があろうが、みんながそれを知っていることによる全員の納得という要素はかなり重要なものだ。たとえば密室での決定は、そこに疑義を挟み得る、ということが問題なのだ。それが実際には正当な選出であったとしても、その正当性はアピールされ、構成員に共有されないうちは正当性を得られない。疑いをはさむ余地をなくすということ、文句を言う余地をシャットアウトしてしまうということ。これが重要である、そうしてこそ、選出されなかったメンバーは納得せざるを得ないし、選出されたメンバーも責任をとらねばならない。

疑義をはさみ得るという事態は、出た結果を他人の責任にしてしまいやすい状態である。制度が悪かった、セレの方法が悪かった、自分は悪くない・・・。お前が遅いのが悪いんじゃないのか?お前が半端な態度だから悪いんじゃないのか?お前がやりたいって言ったんじゃないのか?などという、まっとうな批判は、「抵抗勢力」の極悪人の言葉に聞こえる。これでは強くなれないと僕は思う。ニーチェのところで書いたとおりだ。まずは自分を反省しろ。そこまで腹をくくれ、そういうことだ。他人の責任はそのあとでいい。

 そしてまた、そこで選ばれた選手たちこそ、一人でも多くの人間に納得されているということを無意識に知り、力を得ることとなる。僕はかつて日本代表に選ばれたときにいろいろと考えた。僕は何を代表しているのか。「日本」代表といわれながらも「日本人」といわれる人の大部分は僕のことも、選ばれたプロセスも知らなかった。結局、僕を知り、世界選手権とかの大会を知り、選出のプロセスを知り、興味を持ってくれている、そういう人たちの代表なんだろうな、と結論したことがある。

 このように、手続きをきっちりと提示してゆくことは腹を括るためには欠かせない重要なプロセスだ。そうすることで、セレクションに通った人間も、落ちた人間も、周りで見ている人も、全員が理屈として納得せざるを得ない。昨年度の「ポイントで切る」という方法自体も同様の方向を向いている。あれは、腹を括らせる、責任を背負わせる、そういう方法だった。

腹を括る、手を変え品を変え何度も何度も言ったことだと思う。お前ら本気か??やっぱりこれが一番大切だ。責任を背負うこと。自分の足で。今回それは非常にうまくいったといえよう。特に野口。彼は、セレ第3戦で風邪気味の谷中に勝ってメンバー入りしたが、納得行かなかったと言っていた。納得いったのは、インカレ個人戦で谷中に勝った時だったらしい。これは何の納得か?野口の中で、インカレの二日間は、自分たちが背負ってきたものに対する本当の総決算だったのだろうなと、傍から見ていて思った。強いところも、弱いところも、悔しいところも、全部ひっくるめて、彼は納得しようと頑張ってくれたと思う。あのインカレでの野口の走りは、誰もが感じただろうけれども、それまでの今ひとつ煮え切らない野口ではない、力強さを感じさせるものだった。おそらくは彼は腹を括れたのだろう。これは本当に嬉しいことだった。

幸い、今回は女子においても、最終的にはそこまで持っていくことができたので、問題はクリアされた。そこには当然次項に書くような努力があり、それは実った。みんなでプッチモニを踊って、男子も女子も関係なくて、ああいう風に、羽目をはずせるのは、それまで頑張ってきた自信によるものだと思うから、前の日の宿での練習から、僕は本当に嬉しかった。全身タイツは自信と覚悟の表れだ。(女子はあれで勝ったのかもしれない。)


12.女子との関係

ちょっとした男女のディスコミュニケーション、男女の壁。この壁も、また、立ちはだかっている。

 これまで愛好会が積み重ねたいろいろな関係がそこにはあるのだろうし、あったのだろう。それが僕のカルチャーと違っているだけなのだから、そういう愛好会の歴史をかきまぜる気はなかった。しかも、おそらくは、これは男子中心であるオリエンテーリングの世界で、彼女たちが自立しようとする試みだったのだろう。実質的にこういうことができるのも、筑波以外にはないのだろうし、これは実に大事な試みだ。そういうこともなんとなくわかったから、口出しはすべきではないと思っていた。ただ、やはりその試みは性急過ぎて、振り子が逆のほうに振れ過ぎてしまっていたように見えた。こういう振り子はどちらに振れ過ぎてもレッドゾーンが待ち構えている。失敗したらかえって迷惑をかける。もっと別の、ソフトで、しかもきっちりとした自立と共生の仕方があるんじゃないか。道はひとつじゃない。だから、男女の仲をうまく取り持つ・・・・ではなくて、オルタナティヴを提示し、男女の競技への取り組みを同じ土俵に乗せる・・・ことは重要なことかなあ、と思っていた。

しかし、きっかけがない。僕のほうからアプローチすることは無理だ。女子のほうからのアプローチがあること、これ以外にはなかったのだ。だから結局一年間何もできずに終わりだろうなあと、始めはそう思っていた。

 だから、かとたかが、持ち前の無邪気さで、積極的にコンタクトを取ってくれたことは、僕と愛好会の「関係」を構築していく上で、一つの大きな出来事であっただろう。彼女の顔と名前が一致したのは確かプレセレの時、ミーティングで彼女が質問をしたまさにそのアタックでそのとおりのミスをした、という話だったのでもう初秋のことだ。その後彼女は定期的にアナリシスを出すようになる。どういう選手なのか、予備知識が一つもないところからではあったが、アナリシスは初めてというところから、数回の添削で、まあそこそこの理解は示すようになっていったのは、こちらとしても収穫であった。

かとたかのいいところ――それは弱点でもある――はあまりに素直なところだった。こういう選手にめぐり合ったのははじめての事――しかも二人同時に、もうひとりはさとけん――なので、ちょっと面白かった。ふたりとも、前のレースで駄目だと指摘したことが、ちゃんと次のレースの課題として設定される。それは本当に毎回。毎回テラインは違うんだし、そう律儀に僕の言うとおりしなくても、何か独自の目標を考えていいんだよ、とさとけんに言うと、「いや、ちゃんと考えに考えて、課題を設定したらそうなってしまう」とのことだった。たぶん、僕の指摘を重く受け止めて、ちゃんと反省してくれているのだろうから、嬉しいことなんだけれど、逆に「創造性」が足りない、そんな気もしていた。それがあと一歩、ブレイクを阻んでいたのだろう。そして、そのブレイクスルーの仕方が僕にはわからなかった。行き当たりばったり系のオリエンテーリングをする僕とは相当に違うスタイルだったから。それ故、もしかしたら二人には、もっと別の教え方、さらには別のコ−チのほうが良かったのかもしれないな、なんて思う。なんと言うか、特にさとけんのアナリシスは、いくらシンクロしようとしても、取っ掛かりがない、そういう感触を何度も持った。僕の側の限界だった。ごめんね。

だが、それはともかく、かとたかは、女子との関係において、僕にとっては大きな変化のきっかけを作ってくれた。かとたかを経由して、あまりに遅すぎた晩秋ごろだっけ?みっちーがアナリシスを出してきた。同じ屋根の下(つくばロイヤル)にいながら、ぜんぜん顔も合わさなかったのが不思議だったが、みっちーと一度体サで長い時間しゃべって(かとまりもたまたま来たなあ、そういえば)、このあたりから、女子とのかかわりが急速に進行する。 みっちー個人については、もうちょっと早く見てあげていられれば(WMセレを見れば、あと1―2ヶ月で早いだけで良かったんだ)インカレに間に合ったのに、と誠に残念だが、女子チームとしては全然遅くはなかった。僕がかかわり始めているらしいと言う情報をキャッチして、小暮がいろいろと教えてくれるのもありがたかった。物欲しげな目をして、時々僕のほうを盗み見ていた上松や、独りでもやっていける(たぶんそのほうがいい)二俣が、とりあえず僕の中に何か「使えるもの」を発見して、話をしてくれるようになったので、後は、細かいことは小暮に頼りながら、やっていくことはそう難しいことではなかった。

 女子ミーティングの話が漏れ聞こえてくるところによると、かとたかが早々とセレに落ちたということが(他大学からするとびっくりだろうな)何か悪い方に向かわないかなあと心配はしたが、結局それも彼女たちが解決することとなったようだ。もめるとややこしい、というのは特に女子チームにはありがちで、男性コーチがかかわるとよりいっそうこじれる場合が多く、たとえばもめている暇があったら、もっと練習せい!!などと僕なんかは思ってしまうわけで、しかもそういうことを言うから「気持ちがわかってない・・・」などといわれ、その通りわかってない訳で、よりいっそう話がややこしくなりがちなんだけれども・・・やばいこと書いてるか??・・・筑波女子の場合はこれがあまりややこしくなりそうにないところがカルチャーの違いだなあと感心したのである。みんな、最終的に向うべき所を穿き違えていない。

 結局僕が女子チームに対して何をしたかというと、かとたかとみっちーのアナリシス添削、それにリレーメンバー3人の走順最終決定の時の後押し、その程度だった。

 それでも、関東インカレでかとたかが始めて入賞したと嬉しそうな顔をしてくれた、ちょうどそれと前後して、確かに彼女のアナリシスがようやく人並みになってきたことや、リレーメンバーの3人と、2月ごろ?僕の研究室で走順の最終決定をした時のことは忘れられない思い出だ。

特に、3人とのミーティングは、僕もそれなりにいろいろと考えて臨んだのだけれど、思った以上にすんなりと本番の走順が決定し(何せ、やりたい走順がみんなダブらなかった)、そして戦略などを話して、言いたいことは全て言ったのだけれども、彼女らももう少し話したそうで、けど僕もいうべき作戦は全部言っちゃったし、どうしようかなあといろいろ考えて、で、おそらくはあと一押しがほしいんだろうな、誰かに安心させてもらいたい、「これでいいんだ」と誰かに言ってもらいたい ――こういう人間心理を欲望の三角形と言う議論で説明した社会学者、ルネ・ジラールをたまたま勉強したばっかりだったのでグッドタイミングだった―― のだろうな、と思い、その誰かが僕でいいのかどうか、どうも僕でよさそうだったので、そのようなことを言って、けどこれは口で言っても伝わらない、僕が信頼感を心に響かせてやらないといけない、なんて考えながらいろいろ喋っていたその瞬間、彼女らがなんて言ったのかは忘れたが、「大丈夫です」みたいなことを言った瞬間に、彼女たちの空気が変わった!!彼女たちの顔つきが、特に二俣の顔がきりりと締った、その瞬間が肌でわかったので、僕はもうその時点で優勝を確信した。彼女たちは腹を括った。なんだ、こいつら自分でちゃんとできるじゃない。だから、もはや僕のやるべきことは、プッチモニの監督以外には残されていなかったのだ。あと、雑音のフォローと。

筑波の3人目は実力では確かにかとたかのほうが上だっただろう。しかも、筑波の女子はそういう雑音が周りから無神経に入ってくるチームである。強豪の宿命とはいえ、あまりに実情を無視し、現実を曲解し、しかも何が目的かわからない情報が特に女子に限って詳細に氾濫するという状況は現場に情緒的な混乱を巻き起こす。情報発信者に悪気はないのだろうが、その人の立ち位置が謎なだけに、われわれは対策に苦労するのである。私に知る限りでは、これまでのそういう情報の発信者は、たいていどこかのチームに深くかかわった人物である。かく言う僕も、京大の部誌に書いたことがある。その場合、その原稿は自分のかかわるチームに対しての愛情、エール、からなるが故に、幸い、その愛情は他のチームにも等しく向けられることになり、読んでも腹立たしくはならない。ここには他のチーム、選手に対する敬意、正確な距離感がある。だが、妙に馴れ馴れしい、距離感のない各選手への評価は、本人を傷つけることもあるのである。

幸い、彼女たちはそれに負けない強さを持っていた。それに、3人目が誰であっても、選ばれたからにはわれわれはそのメンバーでベストを尽くす以外に選択肢はないのだ。そこに至るまで女子メンバーみんながどんなことを考え、どんな苦労をしたのかは僕は一つも知らない。ほとんどの苦労は彼女たち自身や小暮が引き受け、僕にはおいしいところを残してくれた、という気もしないでもない。だがとにかく、選手は堂々と走ってくれた。ちょっとでも僕がその後押しをできていたとするなら、それは本当に幸せなことだったのだろう。

こうして、いろんな選手が変わってくれた。野口、女の子たち、これは本当に僕の財産だ。僕がちょっとでも何かを彼らに響かせることができたのだから。だから、リレーの3走で二俣、野口が続いて中間に姿を見せたときには、鳥肌が立ったのだ。確信が現実になる瞬間。これは、きちんと手続きをして進めば、きちんとフラッグがあらわれる瞬間に近い。


13.ボーナストラック

こういうのばかり書いてるとけっこう疲れる。唐突に、東京と音楽の話。

サニーデイサービスの音楽は、地方から出てきた人による東京の音楽だと誰かが書いていた。言い得て妙。セカンドアルバム『東京』はまさにそういうアルバムで、筑波に出て行った春は、あのCDばかり聞いていた。まあ、筑波は東京じゃあないけれどもな。その微妙な距離は、東京幻想を育てるのには良かったのかもしれない。

 大見得切って『東京』なんていう言葉、東京出身の人は使わないだろうな。ムーンライダーズは『湾岸』『羽田』だしな。関西に戻ってみて、逆に東京の恋しさがわかってきた。テレビで見る夜景とかには体が敏感に反応してしまう。

 『墨堤夜景』というCDは、ジャケ写真が、それ。高速の夜景。カーネーション人脈で、空気公団とかパラダイスガラージなんかが入ってる。新宿のタワーで試聴したときには買わなかったけど、最近思い出して梅田のタワーで買った。なぜ思い出したかというと、空気公団が新しいアルバムを出したのと、ピチカートファイヴのシングルスが東京タワーの夜景だったから。これもジャケ買い。紙ジャケだったし。今日、コモンビルのアルバムが出てた。それも暮れなずむ東京の写真。フリーボのサードBlue Moonもそんな写真がジャケットに。

 ルーツがないからいいのか。大阪の重さに較べて、東京は軽い。とりあえず、何でもできそうな気がする。よくわからんが、切ない感じ。京都の五山の送り火、大文字の火が消えてゆくときの切なさ、夏が終わる切なさ、あそこまでは行かなくとも、毎日がそんな感じ。毎日がハレの日で、毎日祭りの終わりを感じて、毎日落差が激しくて、関西人が筑波から見た東京はそんな街だ。

 上に書いたアーティストの音楽も、フォーキーだったり、パンクだったり、ガレージだったり、音響だったり、ごちゃごちゃのルーツが交じり合ってて、けど何が心に響くかっていうと、ギターの轟音と一瞬の静寂とか、激情と諦観とか、そういった感覚。ハレの日と、ケの日が、ごちゃまぜにある感覚。

ギターをアンプリファイして歪ませるという行為が、不良、反抗を示す時代はとうの昔に過ぎ去り、今はそれがわれわれの感情の襞を表現するようになってきた。メガヒットの時代に、10年前よりは確実に僕らの手に届きやすくなっているパーソナルな作品たちが、ひっそりと、パーソナルに僕らに届く。1対ミリオンの関係、1対1の関係。双方への二極化。ポップミュージックの構造は今変容しつつある。僕はパーソナルな音楽が好き。京都のバンドくるり、これもいいぞ。

ところで、誰か、小沢健二の『恋しくて』ビートニックヴァージョンを持ってない??超限定で、業界だけに配布されたものらしい。聞きたいぞ。最近、ニーネというバンドが『恋しくて』をカバーした。それもまたぶち切れてていい。