筑波の5年 (その1、2001年5月12日受信)
鈴木康史

筑波の5年 ―長い旅―
 

1.踏み込めるか、踏み込めないか、それが問題だ。

 やっぱり、何か書き残しておかないと、忘れてしまう。それではあまりにもったいない。
 3月31日、結局ぎりぎりまで筑波にいることになって、引っ越し、研究室の引継ぎなどにあわただしく、 ゆっくりと別れを惜しむひまもなく、僕は高速バスに乗り込んだ。 この日はなんと、季節はずれの雪。東京に近づくにつれ強くなる。桜咲く吹雪の墨堤がこの上なく美しかった。 5年前に、同じ高速バスの窓から見た桜を想う。感慨深い。

「長い旅だったな。」新幹線が名古屋を過ぎ、こんな思いがひとりでに頭をよぎった。 「帰郷」っていうのはこういうことなんだ。5年間の長い旅から今戻ってきた、そんな感覚だった。 それは寂しくもあり、しかし充実感に充ちた懐かしさ、「長い旅」としか言い表せない不思議な気持ち。
 何も変わらない自分がいて、けど確実に僕の中で何かが変わっていて、 たぶん僕はそれなりに成長したんだろう。いつも想うことは同じだけれど、 やっぱり今度も、こんな感じだった。5年間のたくさんのシーンが、頭をよぎる。 それは一つ一つ素晴らしい経験だった。

 一番変わったこと、それはオリエンテーリングに対する態度。引退して、本気で勉強を始めたこと。 何も変わらなかったこと、結局は5年経っても、弱虫のままだったこと。 結局、一番大事なことを僕はまた言いそびれてしまった、そんな気がしてならない。 奇しくも最後の年に、筑波大学オリエンテーリング愛好会の学生たちが、 これ以上ない素晴らしい舞台を提供してくれたのに、僕は結局最後の最後まで踏み込めないままだった。 何に踏み込めなかったの?いざそう問い掛けても、それはよくわからない。 けれど、僕は自分自身の何かを、まだ打ち破っていない、本当に言いたかった事は、 どこか別のところにあって、僕はそれをまだ言えてない、そんな気がする。 ここでこんなことを書き残そうとしているのは、そういう欠落感があるからなのだろう。

 こんなことを書いたところで、過ぎた時間はやり直せないし、何が生まれるわけでもないかもしれないが、 書かざるを得ないのが僕の性分なのだから仕方がない。とりあえず、 僕は何に踏み込めなかったのか?もしかしたら言いたかった事が、 言えるかもしれないじゃないか。だから、筑波の5年間を振り返ってみることにしよう。 物語のふたたびの始まり始まり。


2.新しい物語の始まり

 しかし、こういう形で新しい物語が開けることになるとは思いもしなかった。 それは6年越しの物語でもあり、15年越しの物語でもあった。昔の物語は、僕の中では、 すでに完結しているはずのものだった。僕自身がピリオドを打った古い物語から、 新しい物語が紡ぎ出されようとは、本当に思ってもいなかったのである。

 だが、物語に終わりはない、それもまた僕は知っていた。新しい人との関係の中で、 常に物語は作り出され、それらは常に未来に向かって開かれている。
 世界選手権で、心身ともに思った以上に疲れてしまっていた僕は、 自分を奮起させようとする自分の言葉にだまされることなく、 結局は引退する道を選ぶこととなった。幸い、研究にある程度の見通しが出てきたこと、 博士号という具体的な目標が現れ、オリエンテーリングと同様に情熱を注げる対象を見出せたので、 それはまったく後悔のない、気持ちのよい幕切れだった。 (このあたりことはまた後に書くこととなるだろう。)

 そのときに思ったことは、もう積極的にオリエンテーリングにはかかわらないでおこう、 ということだった。オリエンテーリングの麻薬をすでに経験し尽くし、その怖さを知っていたから、 僕は自分自身に封印をした。「できることすべてをやった。もう何も思い残すことはない。」 こう思い込むことで、僕は自ら新しい世界へと乗り出していった。 もう、この世界と自分が大きくかかわることはないだろうな、そう思っていたし、 そう思わねばならなかった。やっぱり就職がかかってきたから。
 もちろん心残りはある。当たり前だ。世界選手権にもう一度は出たかった。 世界選手権の報告書の最後の言葉は、自分を追い込んで奮い立たせるためのものであると同時に、 半分は本音だ。次の報告書を書く、ということ、次の物語を書く、ということ。

 だが、僕はそれを諦念した。もう、新しいページはない。「つづく」はいつしか宙ぶらりんのままに、 エンドマークに置き換わってしまっていた。 だが、やはり「つづく」は「つづく」だったのだ。 細々と続けていたオリエンテーリングとの関わりの中から、新しい関係が立ち上がってきた。 ふたたび、僕は新しい舞台に引っぱり出された。 それは去年の春のこと、ちょうど一年前のことだった。


3.男子オフィシャルに就任

 去年の春、藤井先生からの一通のメールが来た。男子オフィシャルを愛好会が求めているとのこと。 4月から筑波大学の助手として、ようやく長い学生生活に終わりを告げていた僕は、 多少の余裕が生まれていたこともあり、話を聞いてみようかという気持ちになった。

 だが、かつてのようなオリエンテーリングに対する気持ちはもはや持ち得ないことも自分でわかっていた。 すでに書いたように、ある種の必然と諦念との中で競技生活にピリオドを打ったのだ。 しかも、とりあえず就職したとはいえ、助手は3年期限。 3年後には無職に逆戻りするという事実は重いものだった。研究に対して、それなりに情熱も持ち、 しかもそれは今やらねばならないこと。僕はいったん熱中すると、のめりこみ、後戻りできない性格だ。 ここでふたたびオリエンテーリングにかかわると、自分はどうなるんだろうか。 オリエンテーリングか、研究か、決断をせねばならない可能性がある。 そのとき私には、研究を選ぶ以外にないこともわかっていた。 ここで引き受けて、大丈夫だろうか?自分を抑えられるか。 こうした迷いがあった。だから、とりあえず話を聞いてから、 ちょっと、サスペンドして、時間をおいて考えよう、そう思った。

 だが、それはそう思っていただけだった。そう思いたかっただけだった。 学生たちが訪ねて来るまでもなく、結局僕は心の奥のほうで、 引き受けることにすでに決めてしまっていた。やっぱりやりたい。 だったら、うまく両立させればいい。おそらくは、引き受けても、 研究のほうに重点があることには変わりないだろう。だが、うまくやれば、 また再びすばらしい体験ができそうな予感もあった。

 しかし、この、うまくやれば、が一番曲者だ。僕はなかなかうまくやれない人だから。 そしてうまくやれなかったとき、中途半端なオフィシャルによって割りを食うのは実は学生たちになる。 僕は実はそういうことまでもわかっていながらも無責任に、結局は自分の中の何かに負けて、 自分のために、オフィシャルを引き受けることにしてしまっていた。うまくやれる保障もない、 いや、むしろうまくやれない可能性が高いのに、それに目をつぶって、自分のために、 わがままに、オフィシャルを引き受けて、なんと無責任だっただろう。

 福澤と時岡が訪ねてきたとき、僕はいろいろと条件をつけた。忙しいこと、 あまり面倒を見られないこと、自分たちでやらないとだめだということ、 そうしないと君たちのためにならないということ・・・どれもこれももっともらしい理屈がついていた。 そして「それでもいいのなら引き受ける」というお決まりの文句。実に卑怯。 彼らに責任を押し付けていたのだから。正論で武装するエゴイストほどたちの悪いものはない。 僕はそういう自分に一抹の不安を感じながら、 「何とかなるさ」と自分をごまかしつつオフィシャル業に突入してゆくこととなった。 数年ぶりのコーチ業、しかも僕はすでに一線から引退している。筑波は出身校ではない。 これまでとはかなり違った立場だ。