勝負、または賭けること

鈴木康史


速く帰ってくることとか、ミスをしないことなどは「勝負」「賭けること」ではない。
それらは「確実にやるべきこと」であり「できること」であり、準備を積み重ねることで、 限りなく確率を上げていける、そういう事柄である。

ここで「勝負」「賭けること」というのは、そういった、われわれの人為的な力によって、 何らかの形を残せる領域にはなく、何か偶然が入り込む、最後まで不確定な、そういう領域にある。

例えば、アタックで、アタックポイントはしっかり確認した、コンパス走も正確にできている、 歩測もし、地形も頭に入り、ミスの可能性も理解している・・・限りなくミスの可能性はゼロに近い、 いや、経験的には100%ミスしないと言い切っても構わない、 そんなときでも、なお、厳密にはわれわれは100%とは言い切れない世界に住んでいる。
誰も未来のことを、まだ見ぬものを言い当てることなどできないのである。
本質的に、われわれはこういった不確定な中でレースをしているのだ。
「不安」の正体はこの不確定性である。

「勝負」「賭ける」とは、その「不安」を振り切って、前に進む「勇気」に他ならない。
「賭ける」ためには、徹底した準備が必要である。

当然のことながら、不確定な領域は、なるべく小さい方がいい。
つまり、われわれは一方で、自らの力を使って確率を徹底的にあげてゆかねばならない。
これこそ準備を尽くすことである。
そして、しかも、本来的にわれわれの世界はわれわれの努力のみでは覆い尽くせない部分を必ず残すが故に、 そこから生じる不安を、何らかの形で振り切って決断し進む、 われわれはその勇気を持たねばならないのである。

準備を尽くすこと、その果てにあるわれわれの力の届かない領域に「賭ける」こと、 「勝負」に勝つ、とはそういうことに違いない。

いくら確実なものを積み上げても、必ずどこかに溝はできる。その溝を埋めることは無理かもしれない。 だが、溝をなるべく小さくした上で、そこをえいっと飛び越えること、勝負とはそういうものなのである。 「準備の果てに賭ける」こと、いやむしろ「賭ける勇気を持つ」こと、これが勝者を作ることとなる。
「人事を尽くして天命を待つ」含蓄ある言葉である。