思考のサイクル 補遺 1-7 掲示板より  2001.10.52001.12.28     鈴木康史

 書き損ねたこと、読み直して気付いた事などを追加してゆきます。そのうち、たまったら、またまとめますけど。

というやつを、単にコピーしてきただけですが、ちょっとだけ手直ししました。ほんのちょっとです。言ってる事は一緒です。最後にちょっと全体のまとめ(書き下ろし)とおまけ付加。

(あと、2人からきた質問に対する答えも公開したいな。そのうちね。)

 

目次 

補遺1 ―「聞く耳」という技術と継承

補遺2 ―集中力という技術

補遺3 ―「流れ」と現地

補遺4 ―ほんの一歩

補遺5 ―地形への反応力

補遺6 ―情報の活性化・沈殿

補遺7 ―慣性

まとめ ―すべてを技術化すること、その継承

おまけ ―正しい努力

 

【補遺1 ―「聞く耳」という技術と継承】
 僕が今まで、村越氏の議論以外で、唯一線を引いて読んだのは、国沢五月君の世界選手権の技術報告書の文章です。これが、高橋君のHPで少し話題になってましたので、読み返したいなと思ってまして、昨日、やっと、荷物の中からの掘り出しに成功して、読み返してみました。
 いくつか思った事。国沢君の書いている日本チームへの提言は、ぜーんぜんみんなやる気がないということ。まったく今だに状況は変わらず、国沢君の言っている事が今でも当てはまってしまうということ、残念の極みです。みんな遊びで世界選手権とかナショナルチームとかに向かいあっているのでしょうね。本人たちは精一杯がんばっていても、客観的に見たら「遊び」レベル。一人一人はすごく努力しておられても、チームとしては「遊び」レベル。
 僕は、そのレベルで世界選手権に行ってしまって、非常にショックを受けて、このレベルで行っても仕方がないや、負けがわかってるのに行くのは悔しいしな、と思って(自分の能力では、これ以上は無理だ、と思いました、正直。)引退しちゃった人です。そういう逃げ出した人から言われるのは腹の立つことかもしれませんが、例えば、僕自身、将来的に何かかかわる事があれば、こういった反省を生かしていこうと思ってますので、ご容赦ください。
 しかしながら、例えば、松沢君や高橋君らが言っているような話を聴いていると、もしかしたら、彼らはこうした国沢君の議論を引き継いでいるのかもしれないと思います。また、高橋君や、彼の先輩の村上健介君のように、私の言っている話がひとつのきっかけになった、という事例もあります。私の話は、世界選手権報告書にも書いたように、国沢君の話をそれなりに引き受けていたつもりですので、細々と、こういう継承が行われているということもいえます。
 問題は、これが細々と、であるということでしょうね。関西出身で、ちょっとわが道を行く系の僕なんかは、主流ではない。だから、鈴木が何書いたって、あまり反響はないわけです。そういう人間関係については、僕は別にどうでもいいのですが、そういう関係に妨げられて、あちこちから育ってくる若者たちは、「聞く耳」をもてなくなってしまっている、そんな気がします。
 「聞く耳」は育てないと、育ちません。素直に聞く態度、そして理解する能力、この両輪は、それぞれに独立した「技術」だと思います。妙に囲い込まれ、青田買いされ、そういう狭いサークルの中で育つ事は、こういう能力をまったく育てないのです。そこにいれば心地いいから、彼らも外に出ようとしない。インカレを頂点とした選手育成システムは非常に優れてはいるのですが、残念ながら、いつまでたっても、日本チームにはつながりません。
 僕の話は、少なくとも、筑波の学生たちや、その他数人の他大学の学生たちが読んでくれてるみたいです。「遊び」レベルではありますが、けどそれなりに真剣に書いたものばかりです。何かの参考にはなる、かもしれない、との細い一筋の光を見て、筑波大学の学生さんたちに頼りながら、いろいろと載せさせてもらっているわけです。
これが、細くとも、一つの継承になれば・・・
 で、具体的には、国沢君の書いている「複雑な意味でのスピード(p63)」「思考と行動の流れ(p63)」それらの「統合(p64)」「集中力(p64)」「ナビゲーションコントロール(p64)」などのキーワードを、おそらくは僕の原稿はようやく、一歩踏み込んで言葉にしたもののような気がします。64ページの言葉3つについては、これは相当前からOLPの機関紙に発表したりしてましたが(HPにはまだない)、残りの「複雑な意味でのスピード(p63)」「思考と行動の流れ(p63)」、特に後者については、今回、やっと、言葉になったところです。遅々たる歩みですねえ、けど、ないよりはましかな。まあ、とりあえずは、こういう形での継承を、誰かがさらに生かしていっていただければなと思っています。
 どなたでも、僕もいろいろ批判とか聞きたいし、どんどん感想聞かせてください。何でもいいので。待ってます。批判オッケー。それこそが、またさらに新しい地点に至る第一歩。
 僕はレース中はちょっと違うよ、とか、こんな感じです、とかもね。やっぱり人のことはわからんし。
 あ、それと、くーにー、もし見てたら、感想聞かせてよ。

 

【補遺2 ―集中力という技術】
 技術的な話。「集中」について
 「集中力」についての僕のこれまでの議論。これはHPにはまだ載ってない文章なので(データがないのよ)、おさらい。
 オリエンテーリングというのは、走力と、読図のバランスを取る競技ではなくって、むしろ、それらに振り向ける「注意力」をバランスよく上位から「統合」してゆくべき競技であるということ、つまりはこれがオリエンテーリングに要求される「集中」の振り向け先だということ。(集中、というのは、何かの対象に向かってはじめて意味があると思います。対象のない集中は、結局は掛け声だけ。)
 けど、最近は、ここで本当に必要なのは「集中力」ではなく「注意力」ぐらいのものかなあ、とも思っている。「集中力」という言葉は、なんとなくわかった気になるけど、実はよくわからないので、体裁のいい避難場所に過ぎないかもしれない。お相撲さんが常にインタビューで「思い切っていこうと思ってました」としか言わない、あれみたいなもの。だから、わかりやすく「注意力」といったほうが、具体性があっていい気がする。
 で、まあ、話は戻って、そういう二つの方向への注意力の上位からの統合、という考え方をすると、読図とランニングは、決して対立するものではなく、むしろ100%対0%から0%対100%まで、グラデーションを描くように、それぞれのレッグで分布するということ。道走りでは読図10、ランニング90、難しいアタックでは逆に9010、ラフ区間では3070,4555、とかそういったものだと思う。
 であるからして、それぞれを独立して練習しておけば、すんなりとそれら二つが合わさって完成する、というわけにはいかないということが言える。ランニングはオリエンテーリングではないし、卓上の読図もオリエンテーリングではないのです。(共に超重要です、それは当然ですが。)それぞれのレッグで、それぞれの割合の集中度合いに応じて、それぞれの必要な動作、思考が存在する、そしてわれわれはそれをレッグを見て、現地を見て、瞬時に判断してゆかねばならない、そこの手を抜かないこと、まあ何とかなるかといって走り出してしまったり、もっとスピードが出せるはずなのに、こわがってスピードを緩めてしまう事。それをしないこと、これが実は本物の「集中」かな、と思い始めている。「注意力」と「集中力」これからは分けて考えてみよう。

 

【補遺3 ―「流れ」と現地】

 昨日、山を走っていて、オリエンの感覚を思い出した。
 流れの中で現在地を確認する事、について。
 ドキドキ、ワクワク区間、ここではもちろん、次に出てくるものを予期して、流れ去る情報を流れ去るスピードにあわせて、もしくは、逆に、情報処理できるスピードに落として、その中で最大のスピードを維持するように、頑張っているわけだ。
 このとき、思い出したのは、流れの中で、さまざまな角度から地形などを見ることの重要性。本文中は尾根を巻く例を出したが、あれが典型。他にも、片方から見るとピークに見えたのに、行ってみると単なる尾根だった、とかそういうのは幾つもある。しかも、林の中は、ほんの50センチ横にずれただけで、木の影などに見たいものが隠れる。つまり、ほんの一歩の移動が命取りになる事もあるのだ。また、遠くからは見えるが、近くに行ったら見えなくなる、地形もある
 こういったさまざまな困難を克服するために、われわれは、やっぱりきょろきょろすべきだと思う。「ほんの一歩」を大切に。オリエンテーリングで「無意味な一歩」はない。すべての一歩を大事にする、それこそが集中かも。

 

【補遺4 ―ほんの一歩】
 目の前に木が出てきたから、その木を巻くほんの一歩、フラッグに着いて、脱出するときのほんの一歩、こーいうのが大事。登りで、つらいながらも頑張って出す、ほんの一歩。
疲れていたり、気が緩んでいたり、つらかったりして、ほんの一歩への集中が途切れたとき、おそらくわれわれはあらぬ方向に向かっています。
気をつけましょう。

 

【補遺5 ―地形への反応力】
 今日、天王山で走って、ひとつわかった。
 CPから離れる瞬間という事を本文でちょっと書いたけど、CPから離れる瞬間に、いや、離れて方向が安定してから、まあそのへんの時間帯に、常に、これが正しいラインかどうかのチェックを入れていた。もちろんそれはまず第一には正置によってなされるし、地形との照合もありえる。
 これによって、ライン辿りの安心感が増大する。確信度が高まる。それによって、次に見えてきたものが自分の目指すものだというアイデンティファイが速く、確実に行える。
出てきたものがこれだとわかる事を「地形への反応力」と呼ぼう。この反応力は、その場所に行ってからというよりも、それ以前の、どれだけ自分の進む方向に確信をもてているかによって決定する部分が多いのである。

 

 

【補遺6 ―情報の活性化・沈殿】

うごいて景色が変わる事、これが、とーっても大事である事も、ちゃんとどこかで書きたいな。そういう刻々と変わる景色に反応してゆくことが、意識のサイクルを駆動させる動力である。

反応と言っても、実は僕の情報処理は、決して決め込んでしまっていない。少なくとも、ある一点をある一点だとアイデンティファイするためには、刻々と変わる景色の中で、少なくとも2つ以上の地点からの確認をかけている。つまり、予期して、視認する、というのが一つ目、けど、それでも、確信度を100パーセントには、あえてしない、そういう、更なる安全弁をかけているようだ。動いてみて、他の情報も入手する。もちろん、その動きは、前に進むためのものだから、わざわざ情報入手のためには動きはしないが、しかし、そこでもういちど、今のアイデンティファイが正しかったかどうかを追認する。

これは、補遺5で書いた次に向かうラインの確認とほぼ同時に行える。

今日、地図を持って山に入って思った。意識的に地図を見ているときと、意識していないのに、何かの情報が自分の中に沈殿しているときと、二つの地図情報入手パターンがある。「沈殿」の方は、意識してみるわけじゃなくって、意識して地図を見たときに、視野の片隅にとらえている、そういうレベルの情報で、不要であれば想起もされない情報だけれども、それが、現地情報によって「活性化」される事がある。

最近の僕のレースでは、それが活性化されたときに、いちいち地図を見直さなくても、なんとなく全体像がわかっている場合が多い。つまりは、ミスしても、さっきチラッと見たような気がする地図情報から、今どこにいてどっちにいけばいいのか、地図を見なくてもわかる、というような神業である。もちろん、念のため、地図は見るが・・・。

これは、おそらくは、地図情報利用の方法が二つに明確に分離され始めている事から来るだろう。一つは、必要最小限の情報。プランの骨格。これなしではたどり着けない、そういう情報。で、それだけでたどり着ければ、それで地図読みはおわり。

プランして、大体わかる。動いて、そのときの情報を、現地を見ながら次々と確認してゆくのみで、楽なものだ。

だが、疑念が入ったとき、そこで第二段階の読図。詳細に入ってゆく。このとき詳細部分は、全体の大きな骨格の中で位置付けられる。それゆえに、細かい読図で現在地がわかったときには、大きな方向はすぐに理解できる。で、先に書いたのはそれが頭の中だけでなされる事がある、そういうことね。

情報の沈殿、活性化、このへん、使えそうな用語だ。「図」と「地」の関係の事をいっているのだけれども、現象学用語よりもわかり易いかな

 

 

【補遺7 ―慣性】

アナリシスを添削していて思ったこと

プランニングとは、非常に重要だ。それはおそらくは、ひとつには、プランニングが「実行」を俯瞰する、メタレベルの位置にいるからであろう。プランとはすなわち「こうしようう」という「意志」である。その「意志」のもとにわれわれは行為を「実践」するわけであるから、プランは当然のごとく重要だ。(これはおそらくは「理論」と「実践」といった二元論的な概念装置によって理解できそうだ。)

 だが、もうひとつ重要なのはプランによってわれわれは動き出す、そのときに「慣性」がつくという事実である。またまた新しい言葉の登場だ。

 関東本セレの女子12、男子にも似たレッグはあった。みっちーの反省から。

これは道に当ててはね返ってくれば、ラフに行けるレッグ。けど途中にちょっとあいまいだけど、CPになりそうなものはいくつかある。直接当てようとして、それらをCPをチェックしようと進む。が、あいまいなのでよくわからなくなる。結局最終的には道でリロケートするしかなくなった。「途中で確定できなかったのが不安で、道に出ればOKと思いつつも、今どこにいるかを知りたくてゆっくりになってしまった。」という反省が述べられる。

だが、これは、「不安」でゆっくりになっているのではないだろう。不安になってまわりをいろいろ見たが、確定できそうな情報が何もなかった、とも書かれているから。つまり、それならば、逆にさっさと前に進んで、確定できそうなところ、つまり「道」に急ぐべきだから。なのに、それをしていない。

これは「慣性」だ。プランの時、ドカーンと道に当てるプランを捨てた時点で、そして、途中をいくつかチェックするプランを立てて動き出した時点で、あるイメージがセットされ、われわれはそのつもりで進み始める。その、つもり、は、いったん動き始めると、なかなか止まらない。それは、スピード、つまりは足の動かし方、から、意識のサイクルに至るまで、すべてを支配する。

いろいろチェックしようというプランに従って動き出した時点で、われわれはおそらくはあらゆる能力を総動員してそのプランの完遂を目指すのだろう。そのプランが途中でうまくいかないということが明らかになったとしても、その総動員体制は「慣性」で続いてしまう。だから、根本的に違った行動に乗り換えようとしても、体も心も許さない。

途中で道に当てる方に乗り換えようとしてもうまくいかなかったのは、おそらくはこういう「慣性」の支配が非常に大きかったから、なのだろうと思う。この慣性を振り切るには、相当大きな刺激が必要だ。(コンプリートロストに匹敵するぐらいの・・・)

この「慣性」と僕が表現するところのもの。なぜ、かは知らぬ。それは心理学の領域。だがとにかく、こういうことが、ある。しかもそれは心だけの問題ではない。むしろ、足が進んでしまう、足が止まらない、そういう全体的なものだ。いや、ここは微妙な表現が必要か・・・つまり、自分の意思でもあり、意志でもない部分。レースという特異な状況において微妙な一瞬一瞬の意識の断片の流れがあって、「止まれ」という決断も、「進め」という決断もできずに、で、「決断」がないとそのままずるずる行ってしまう、つまり足が慣性で動き続ける、そんな感じ。

こういう人間の性質は、「心」の面だけいえば、「合理化」などと説明されている。自分の取った行動を正当化するために、たとえそれが非合理な行動でも、人間は次の行動を選択してゆく、ということ。例えば将棋で、少々悪手でも、すでに指した一手に筋を通すために次の手を選択する、そういうことをする。

だけど、ここでいうのはちょっと違う。もっとぼんやりしていて、「意志」にすらなっていない「意識の断片的なもの」、そういう断片がカオスのようにせめぎあうのがレース中のわれわれの頭の中で、それらの断片の中から卓越した断片が「意識化」され、それが「意識のサイクル」を構成する。

が、その背景には無数の、レース後には覚えてもいないような「意識の断片」があり、そして、われわれの体は、案外そういった断片によって動いている、そんな気がするのだ。「ああしんどいな、あそこまで登るの・・・」→「頑張らないと、もう少しだ・・・」そういう無数の断片の連鎖は、われわれを根底で支配しつつ、残念ながら、決して「意識的な決断」にはつながっていない。そういった連鎖を断ち切り、決断し、より良い連鎖を構成してゆくこと、これがオリエンテーリングの深層心理になるだろう。

この連鎖が「慣性」なのだ。つまりこれは、われわれの身体に深く食い込むリズムであって、これを断ち切るには相当高次元の命令が必要だということ。もうちょっと具体的にいえば、各レッグで、プランして、動き出しちゃったら、われわれは全身でそのプランに命じられた一定のリズムにはまり込もうとしてゆくものであるから、心身両面においてなかなかそれを断ち切る事は難しいということなのだ。

だから、うまくはまれば、逆に強い。レッグに対して適切なリズムにはまれば、これは利用できる。脱出が大事なのは案外こういうことなのだろう。このあたりのコントロールができる選手が優れた選手だということはすでに書いたと思うが、それはすなわち、自らの深い部分にまで意識をおよぼせている選手、ということに他ならない。「慣性」を利用できる事、逆に、すぐに「慣性」から脱する事ができる事、これは心理的な強さ、明敏さ、決断力、新しい事にひるまない力、などの心理的な力はもちろん、体力的な裏づけも必要な。真に根源的な能力に他ならない。

だけど、たいていの場合、われわれは、こういった「慣性」に負けて、やるべき事をサボって、「まあいいや」とか「何とかなるわ」とかいう言い訳を「慣性」の側にあたえてしまい、「やらなければいけない」といくら頭でわかっていても、「体」も「心」も言う事を聞こうともしなくなって、「止まれー」と言い聞かせようとするその一瞬前に足が勝手に前に進んでしまって、で「まあしゃーない、何とかなるわ」と自分を甘やかしているうちに「案の定わからなくなっちゃった」という愚かなことを何度も繰り返すのだ。こういう慣性を「惰性」という。

 

 

【まとめ ―すべてを技術化すること、その継承】

全体を読み直して、一つの方向が明確になった。「具体化」という言葉は、筑波でさんざん語った事であるが、これは「技術化」とセットで使用せねばならなさそうだ。具体化しても、それが身につかねば意味がないからであり、それはつまりは、ある事柄を具体化してゆくときには、それがある種の「型」を構成し、反復可能であり、習得可能な、そういった方向に向けて構成してゆくべき、ということでもあろう。

これは、現在、新しい教育学の中で徐々に主張されている方向と似ている。もちろんそういった動向から僕が影響を受けているからだ。斎藤孝の最近のいくつかの著作、特に筑摩新書の2冊「子供たちはなぜキレるのか」「できる人はここが違う(書名忘れた、こんな感じ)」、NHKブックスの「身体感覚を取り戻す」は、入門者には読みやすいだろう。自分の本を紹介できないところが悔しいところだ。

ともあれ、「身体」「感情」「言語」「型」「技術」といった、オリエンテーリングに限らない普遍的問題が、ここには横たわっているのだ。これらは、これまでわれわれが受けてきた「教育学」を支える「精神」「理性」「知識」を中心としたシステムを超えていこうとするものである。

まあとにかく、オリエンテーリングに踏み込んで、もやもやした領域を「言語化」し「アプローチ可能」にし、「具体化」し、「技術化」すること、それによって「共有可能」にすること、僕のテーマは一貫してそういうことであったようだ。これまでも「エリートにしかわからない言語」などと言われてきたことであるが、それはある種の「秘伝」的な「職人」的な、しかもエリートと非エリートを「差別化」しようとするひそかな欲望に裏打ちされた、閉じたものであった。

これをどんどん「開いて」ゆくこと、理論的に一貫してゆく事、これによってこそ、われわれは多くのものを共有し、それによって1+13にも4にもしてゆく事が可能となるのである。このあたりが日本チームに足りないところだ。今後に期待したい。

 

【おまけ ―正しい努力】

われわれは正しい努力をせねばならない。最もよく準備したものが勝つ、なんていう伝説はもう捨てねばならない。大事なのは何が「良い準備」なのかということだ。

良い準備をだらだらやるのと、根性入れて間違った準備をするのと、たぶん前者が勝つ。いや、そのぐらいに考えるべきだということ。(かつて、岡田公二郎もそういうことをいっていた記憶がある。)

目差す目標に向けての、具体的な、まっすぐの、努力。目標が違えば、当然「良い準備」も異なる。たくさんの「良い準備」がある。

そのなかで、目差す目標に何が必要か。それを理解できる事が大切。

そして、コーチはそれを示せるものであらねばならないし、それを示しさえすれば、後は何もしなくても良い。

今年、みっちーや新宅を遠くから教えていて、それがようやくわかった。またひとつ勉強したな。細かい技術とかどうでもいいんだ。本筋をはずさなければ、選手はちゃんとわかってくれるし、それで細かい事まで「すべて」が伝わっていたりする。