世界選手権大会報告書 1993-1995 (1995年 技術報告書投稿原稿)

鈴木康史


1.はじめに

 世界選手権からまだ1ヵ月が過ぎ去ったのみです。それゆえ、以下の原稿がいささかまとまりを欠く、わかりにくいものであることをお許しください。抽象的で、肝腎のところは何一つ書いてなく、後進には全然役に立たない原稿という気もしないでもないですが、今の時点ではこうしか書けませんし、そもそも私はこういうランナーなのでしょう。


2.93年世界選手権(アメリカ)セレクション(93年初夏)〜94年夏

 前回の本セレクションが一つの転機だった。あらゆることが宙ぶらりんだった私は、やっと一つの方向を見いだせたような気がした。このセレクションは、1戦目は捻挫でDNF、2戦目6位だった。転機となったのは1戦目(望郷の森)の方である。このレースはそれまでもそれ以降もしたことのない最高のレースであった。このレースが最終的には棄権に終わってしまったことは、少しの悔しさと、勝敗を超えた満足感と、そこから来る自信と、そして、(振り払ったと思っていたのだが実際は)自分は心の底で逃げていたのではなかったかという(より深い)自己懐疑を与えてくれた。この自己懐疑については、言語化するのが難しいがゆえに、今回はあまり触れられないが、私にとっては、技術、走力面でのどんな問題よりもさらに大きな問題であり続けた。たとえば、意識して、多くの人の前で「WMを目指す」と宣言しつづけること、それによって他者の視線を自分のものにすること、などは、その自己懐疑に対するセルフメンタルマネージメントであった。こうした取り組みの結果、この2年間でメンタルマネージメントは大きく飛躍したと言えるだろう。

 また、技術的な面でも、このレースは2年間の方向を決定した。このレースに向けての準備で、技術を技術のみからとらえるアナリシスに関しては極めたな、という感覚を持っていた。レースの分析、ミスの「構造」化、次のテライン分析と「構造」の応用といった過程は私のなかで血肉化されていた(これに関しては、本セレ直前の富士での合宿が役立った)。

 このような準備下のレースで私が感じた不思議な感覚(いわゆるピークエクスペリエンス)を言葉で解釈すれば、これは技術、走力、精神の奇妙な一致と均衡であった。もちろん、これは意図したわけではない、偶然の集中状態であったが、技術的な準備を尽くしたレースで走力と技術が微妙な高い均衡を保った、このようなパフォーマンスが出来たことは大きなヒントとなった。

 この2年間の課題は、まさにこの点となった。すなわち、技術と走力のバランスコントロールをメンタル面をベースに「意図的に」できるようになることである。今までのように、技術と走力をそれぞれ独立した変数として考え、その座標上に各レッグをプロットしてゆくのは真のバランスではない。技術と走力とはまさに一体として均衡を保つのだという確信がこのレースで得られたのだ。やっと「技術と走力のバランス」の尻尾をつかんだ。これを手繰り寄せねばならない訳だ。

 ヒマだった93年の秋のシーズンは、独自のトレーニング法の実践と新しいスタイルの模索、上記の方法の言語化に費やされた。ちょうどこの頃、日本学連の第2回コーチングクリニック報告書に原稿を書く機会を与えられ、このあたりのことを書いているので興味のある方は参照いただきたい。また、コーチをしていた京大OLCの機関誌「ペナルティ」に、上記の詳しいトレーニング方法を書いているのでそちらも参考になると思う。  このオリエンテーリングスタイルの改造は翌94年7月のOB京大杯でほぼ完成が確認された。このレースは中村弘太郎、小長井信宏の二人の後塵を拝してしまったが、スタイル改造にあたっておおいに参考にした二人にせまるタイムを出せたことと、意図どおりのレースが出来たことで満足のいくものであった。


3.新しいスタイルに関して

 アメリカWMの報告書のあちこちに「高速ナビゲーター」というあまりに当たり前の言葉が踊っていた。「オリエンテーリング=高速ナビゲート」なんだから、当たり前のことを何をいまさら、と私は感じたのだが、その中で、国沢の報告のみは、その本質をきちんと明らかにしている素晴らしいものだと思う。当初はよくわからなかったのだが、私のスタイルは、あそこで彼の言うスタイルと非常によく合致するようだ。詳細は彼の報告書に譲り、ここでは私は何も書かない。

 高速ナビゲーターなどという言葉はどうでもいいが、あの言葉が真に意味する、集中力を中心とした理論こそが私の行き着いたものであった。私自身の考えに関しては、現在OLP兵庫の機関誌「ミスパンチ」に連載している記事を参照いただきたい。  なお、このスタイルを支えるのは、日頃の「技術」練習と高い集中である。いつもいつも高い集中をしていられるわけはない。このことから、メンタルマネージメントがさらに深まっていった。また、プランニング・マップコンタクトという概念が今までとは全然違った姿で立ちあらわれてきたことも付け加えておこう。


4.ドイツ・チェコ遠征(94年9〜10月)

 この遠征の内訳は、ドイツワールドカップ(クラシカル予選、決勝)、チェコワールドカップ(リレー、クラシカル)、ドイツWMトレーニングキャンプである。この遠征へは、完成したスタイルを持って臨めた。WCについては報告書にも書いたが、トレキャンも含めて、今回のWMとの関連で書いてみよう。

 この遠征で発見できたいくつかの課題は、すでにWC報告書に書いた。が、あれを書いた時点では明確に理解できていなかったものがあった。マップコンタクトへの集中(マップコンセントレーション、テラインコンセントレーション)の改善、そしてスピードの改善、である。しかし当時は、このふたつをドイツで成立させるために必要な、コンパス直進の精密化、に関して表層的な意味での認識しかなく、どのようにしてマップコンタクト、スピードを高めるのか、が理解できなかったのだ。トレキャンがこの混乱の始まりであった。色々と試してみるのだがうまくいかない。それは当たり前だったのだが、それに気付かなかったという意味では、このトレキャンは無駄に過ごしてしまったことになる。  この混乱が尾を引いた形となり、トレキャン以降、WM本番に至るまで、自分のスタイルを再構築しているといえば聞こえはいいが、結果的にはそれまでのような明確なビジョンがないままに自分のスタイルを模索するという混乱の時期になってしまった。

 なお、ドイツの第1戦目、つまりクラシカルの予選は、私にとって初めての日本代表のレース、初めての世界レベルのレースだった。それゆえ、レースでは他のランナーが気になり、自分のパフォーマンスが出来ず、良い反省材料となった。


5.栃木全日本(95.3)まで(その1 混乱期)

 ここは上で述べたとおり、混乱期だった。新しいスタイルに移行する際に、どこまで古いナビゲータースタイルを崩せばいいのかがわからなくなり、その影響は、自分がいちばん自信を持っていた「パフォーマンスの(言語的)アナリシスとその応用」にまで及んだ。それまでも兆候はあったのだが、この秋についにレースアナリシスが書けなくなってしまったのだ。何を軸に自分のパフォーマンスをチェックすれば良いのかまったくわからなくなってしまった。これが何を意味するかというと、現状維持の、普通のレースは出来るが、次に進むステップが見いだせない、ということなのだ。

 この原因の一つは、大学を移り、環境が変わったことによる。京大時代はすぐそばの吉田山でのテライントレーニングが出来たのだが、京教大の近くにはそれに適する山がない。テライントレーニングは目に見えて減ってしまった。これが最大の原因だ。

 また、それに加え、遠征後翌年の1月頃まで3ヵ月間は体調が悪く、追い込みのトレーニングなど出来る状態ではなかったことがある。ここ1〜2年私の体調は3ヵ月を周期として良くなったり悪くなったりを繰り返している。WC前は絶好調でいくらでも走れたが、悪くなると月100キロが限界という情けない状態に陥ってしまう。このような状態で予備セレのポイントを関西から遠征して取りにゆくことで、体はますますつらくなる。悪循環だった。このおかげで、94年の秋はろくにトレーニングをしていない。  ただ、このような状態のなかで、何とか成績を残そうと頑張ったおかげで、精神的に強くなった。狙ったレースは絶対に落とせないからである。もうこのころには、緊張感を感じる、あがる、等という精神状態はどんなものだったか思い出せないぐらいにタフになっていた。これは怪我の功名であろう。

 だが、1月末からやっと体調が上向いてきた。その結果、2月の愛知の全日本リレーでは村越、鹿島田の二人に思った以上に食い下がることが出来た。このレースは頑張って彼らに着いていき、かつてないほど追い込んだ。おかげで、彼らのスピードを知ることが出来て非常に役に立った。結果も満足できるものだった。

 そのすぐ後の早大OC大会で、予備セレ通過のめどもたち、だんだんと自分のポジションが明らかにされてきた。総合的に勝てないな、という相手は村越、鹿島田、入江、加賀屋のWM代表4人、ピークパフォーマンスでは勝てないなと思う相手は2〜3人、つまりはまさにボーダーということだ。

 このように、そろそろ結果を考えねばならなくなってきたことは、混乱を沈めるのに有効だった。ライバルと目される相手との一番の差は走力である。が、幸い、私は追い込みトレーニングをせずに今の地位にいる。この時点で、全日本に向けて追い込みを試してみる、WMセレまでには追い込みに体を慣らす、WM本番に向けて実際に持ちタイムを改善することを課題として設定した。


6.栃木全日本(95.3)まで(その2 改善期)

 走力の改善、そのために、今までほとんどしたことの無かった追い込みのトレーニングを行なうこと、これが明確な目標となると、次の問題はそれをオリエンテーリングのスピードに反映できるかどうかである。マップコンタクトへの集中が阻害されないか?これに関しては、しかし、すぐに答えは出た。たぶん大丈夫だろう。愛知のリレーでの自分のパフォーマンスがそれを示していた。自分以上のスピードで、しかもかなり駆け引きをしながら、何とかミスなしに回ってこられたことから、あの時の集中力が前提ではあるが、スピードアップに技術的に対応することは容易だろうと思われた。

 このあたりから、やっと改善の兆しが見え始めた。全日本まではそれほど時間が無いので、まずは精神的にインターバルに慣れることとスピードアップのために筋トレを目標とした。これはかなりうまくいった。2週間前のインカレの併設で、筋肉の疲れから全然足が動かない状態を経験し、相当に追い込めていることが確認できた。筋肉の感じもベストの状態だった。

 全日本は、直前の調整に失敗し、幾つかの不安を抱いての出走であった。レース自体はボロボロで、まだ混乱から抜け出せていないことを如実に示すレースだった。ただ、最後まで切れずに走りきれたのは、トレーニングの成果だろう。ゴールした時点では20位も危ないと思っていたが、結果はご存じのとおり、入江も加賀屋も崩れて3位となれた。これは素直に嬉しかった。しかし、この結果よりもゴール時の感覚の方が正しいということは上二人との差が示している。さらには、あの地図でのレースである。この全日本をどう自分の中で位置付けるかが今後の自分の努力を大きく決定付けそうだ。努力が結果に結びついた部分と、偶然が作用した部分にしっかりと線を引き、喜ぶべき部分と悔しがるべき部分にも線を引き、こうして以下のような結論に達した。

 技術的な課題は全然解決していない。しかし、地図の精度の悪さによるミスもかなりあるだろうから、あまり深くアナリシスをしないようにする(どうせ出来なかったが)。走力は評価できる。ただし、スピードというよりは持久力の勝負であった。スピードはまだまだ。3位という結果は、自分のキャリアのなかでは大きくプラスに作用するので素晴らしい。これは自分の全面的準備の結果であり当然の順位である。例の岩石地へ右から回ったから、たまたま3位になったというものではない。だが、右回りのルートを取ったことは偶然であり、今回の順位は偶然のものでもある。

 運も実力のうち。しかし運などなしでも勝てねばならない。。非常にすっきりと、全日本はまとまってくれた。(これは順位が良かったからだ。)そして、これをきっかけに、また精神的な飛躍を私は経験することとなった。


7.全日本後、本セレクションまで

 全日本後、体調はまた少しづつ悪い方向に向かった。セレクションまで2ヵ月もない。ここで無理をすると、取り返しのつかない体調になることは経験的にわかっていたので、追い込みは軽減せざるを得なかった。大会が近くなると、この辺りの兼ね合いが難しい。トレーニングと体調の管理は私の最大の課題のひとつである。

 そんなある日、久々に前回の本セレクションのビデオを見ていて、そこに写っている自分が自分でないような、不思議な感覚に陥った。ビデオに写っている自分と今の自分とのあまりに大きな違いがその違和感の原因だった。あの時の自分は、やはり世界選手権に出ることから逃げていた。しかし、今の自分はそれを当然のこととして感じている。そしてもちろん、その最大の転機が全日本だったのだ。いつのまにか当然と感じている自分がその時発見された。自己懐疑に一つの解答が与えられた。こうして、最大の課題が、劇的に解決し、精神的な準備は整った。もはや口で「WMを目指す」と言う必要が(主観的にも客観的にも)なくなった。どんな場面でも自分の持つ力を冷静に100%出すことが出来る、という確信も確信でなくなってしまうぐらいに自分のものとなった。

 あとは技術面の混乱のみだ。だが、もはや時間がなかった。これも言い訳であったかもしれない。しかし、いたずらに夢を追い求めるのではなく、現実を見つめねばならない。今や私にとってはWMとそのセレクションを通過することは夢ではなく現実なのだ。理想のオリエンテーリング(前回のセレクションのような)は、その時は現実だったのに、今や夢である。このあたりから、セルフメンタルマネージメントはさらに精緻に、複雑に、入り組んでゆく。虚と実が何度反転したかわからない。結局、私は、格好付けずに、泥にまみれて、不様に這いつくばってでも、とにかく結果を出すことを自分に課することにした。そのためには言い訳しようと、逃げようと、構わない。観念の迷宮は、時にこのような訳のわからない結論を引き出すが、これがその時の正解だった。

 セレクションが近付く。体調は小康を保ってくれた。あまり追い込みは出来ていない。結果が全てだと思っていたがそれに対するこだわりは頭の中には全然無かった。感情がせきとめられずに自然に流れる。ただ自分のオリエンテーリングをするのみだ。逃げの気持ちでなく、オリエンテーリングを「楽しめる」か?究極の目標。


8.本セレクション(5月14日、5月28日)

 第1戦ではレースはまあ予定どおりだったが、順位が予想外だった。技術的混乱のせいで、肝心なところでスピードが出ていないのがよくわかったが、そんなに負けるか?と思った。しかし、2戦目に影響はなかった。2戦目も同様。1戦目の反省から、1戦目よりもスピードを出せた。ゴールで結果が出揃い、一時はあきらめたが、推薦されて、一瞬嬉しかった。しかし、すぐにもとに戻った。不思議なぐらい嬉しさもなく、不思議なくらいにプレッシャーもなく、セレクション前とまったく変わらない状態であることに自分自身が驚いていた。メンタルマネージメントの結果だろうが、良いことか悪いことか?

 この2レースでは、自分のパフォーマンスを最大限発揮する能力の確認が出来た。混乱しているところは混乱しているところとして処理できることもわかった。このように技術的課題を、それに真正面から取り組まずに、一つ高い次元で処理してしまえたのは、すごい能力であると言えばすごい能力だが、実は何の解決にもなっていない。少なくともタイムを縮めることには結びつかないのである。オリエンテーリングに階層性や相対化の視点を持ち込むのは、技術の整理・分析という面では有効だったが、このようなパフォーマンスの安定化、平準化を招くとは思いもよらなかった。「出来ることと出来ないことを理解すること」とはよく言われる言葉であるが、ここまできてしまうと、逆に自分の首を絞めることになる。

 O−JAPANに書いたように、こういう経緯で、WM本番ではどのようなレースが出来るかもわかってしまっていた。奇妙な諦観。私にとってはこれは決してプラスではない。これを打ち破らねばならない。やはり派手で肉体的で単純な「スピードアップ」が特効薬だろう。観念の牢獄は、身体によって打ち破られねばならない。(この辺りの状況がよくわかる文章を最後に付す。村越真へのオマージュという文章だ。)


9.踵の故障

 セレクション後疲れがたまっているのがよく分かったので、無理をしてはまとまった追い込みが出来ないと思い、休養を取った。この後、ゆっくりとトレーニングのペースをあげるつもりだったが、どうしても走りすぎてしまう。

 結局、6月の29日に、鴨川でタイムトライアルをし、まあまあ満足のいくタイムを出したのを最後に、右足のアキレス腱と踵骨の痛みにより、走れない日々に突入することとなった。この痛みは、思い返してみれば、数日前からあったものだが、走りおわると全然痛くないことや、歩いたりするのにはまったく支障が無いこと、そして過去にも同じような痛みを経験していたことから、非常に軽く見ていた。

 原因や正確な診断は今だによくわからない。(ちなみにこれを書いている時点で、右の痛みは軽くなったが左はまだ痛む。)幾つか思い当ることはあるが、結局はオーバーユースなのだろう。

 ちなみに、6月のトレーニングを以下に書いておこう。

1〜10日
東大大会のみ(休養にあてた)

11日〜20日
クロカン 26キロ(うち追い込み2キロ)(3日間)
ロード 11キロ(うち追い込み1+2キロ)(2日間)
LSD 18キロ(1日)
JOG 19キロ(2日間)
群馬合宿 26キロ(2日間)
筋トレ 2日
完全休養はなし、トータル 100キロ(追い込みは3日)
本格的なインターバルはしていない

21日〜29日
クロカン 20キロ(2日間)
LSD 18キロ(1日)
JOG 9キロ(3日間)
トライアル 5キロ(1日)
学連定例戦ポスト確認 15キロ?(1日)
筋トレ 2日
完全休養 1日 トータル 67キロ
28日のLSD、29日のトライアルは非常に快調であった。足は痛んでいたが


10.リハビリの7月

 29日のうちに鍼にいき、痛みは少し引く。が、7月2日のロング−Oで、まったく走れないことがわかる。この後16日の関西壮行会までランニングを止め、鍼治療に通い、筋トレを1〜2日おきに行なっていた。アキレス腱の痛みはかなりひいたが、踵骨の痛みは取れていなかった。普通に歩くのも、ジョグも痛くない。しかし、爪先立ちで左右に力をかけると激痛が走った。つまりは、山道が全然走れないということだ。16日の関西壮行会は、そのあまりの痛みに足が恐怖感を抱いてしまった。(この時は、遅刻はするわ、走れないわ、終わってからもうわの空で、来てくださった方にはたいへん申し訳なく思っている。)2週間経つのに全然良くなっていないので、いつまでも楽観的でも駄目かと整形外科へ。最終的にステロイドの注射をアキレス腱に1回、踵骨付近の組織に2回受けた。もちろん、注射で治るわけはないが、今度ばかりは対症療法にもすがりたい。痛みはかなり減ったものの、芯の方の痛みが治まらないままに出発日を迎えることになった。

 病気や故障は、病気だ、故障だと思ってしまった時点でもう駄目だ。たとえば、29日のトライアルは、最後の1キロで痛みが激しくなってきたけれども、故障だ、という気が無いものだから、我慢できてしまう。それに対して、いったん故障と思ってしまうと、もう少々の痛みも我慢することが出来ないし、恐怖感が先立ってしまう。もちろん、治療の観点からは我慢してはいけないのだが、スポーツへの復帰のことを考えるならば、この辺りのメンタルマネージメントは重要な課題であろう。

 今回は私はこの恐怖感に完全にとらわれてしまっていた。痛いまま走ったロング−Oと関西壮行会の記憶が頭を去らず、右足はいくらテーピングで固めても、実際はもうあまり痛くなくても、恐がって思い通りに動いてくれない。8月1日(出発の4日前)から、ランニングを再開したところ、いいタイムは出るのだが、どうしても足に意識が向き集中ができていない。これは高い集中力のバランスを第一義とする私のオリエンテーリングの根幹を揺るがす一大事だった。

 この間、トレーニングは水泳中心である。ハートレートモニターのおかげで水泳である程度の心拍数を確保していたので、心肺機能はあまり心配してなかった。精神的にへたってしまうことがいちばん恐かったが、何しろこういう得体の知れない(いつまで経っても痛みが引かない)故障は初めてである。うなされて飛び起きることも数回あったが、幸い上記の恐怖感以外の面では実に健康的な精神状態をずっと保てていた。もちろんこれはセルフコントロールの成果である。この面ではよく頑張った。

 このような状態のなか、一時は代表を辞退しようかとも考えたが、何をもって日本代表の責任とするのか?といろいろ考えた末に、とにかくWMが終わるまで日本代表であり続けようという結論に達した。この1ヵ月の努力は、たしかに客観的評価に値する努力ではないけれども、自分の今後のためには、何らかの評価がなされねばならなかった。それに、人に譲れるほど人間は出来ていない。


11.トレーニングキャンプ(8月7日〜13日)

 急ピッチで調整をせねばならなかった。はしゃいでる暇はなかった。頭のなかは自分のことばかりだった。とにかく恐怖感を取りのぞかねばならない。トレキャン5日目(11日)ぐらいにやっと足を気にせずに走れるようになってきた。これは集中力がオリエンテーリングに向き始めた証拠でもある。この日は嬉しかった。だが、真の調整はこれからだ。一日でも時間が欲しい。クラシカルから外された(=遅く始まる)ことを心から幸いと考えている自分がいた。何ということだろう。

 しかし、不思議と焦りはなかった。なるようにしかならないという諦観か?もしかしたら私は心に刺さった棘を抜くためにドイツに行っていたのかもしれない。故障した足を酷使するのは自虐行為だったかもしれない。とにかく、不思議と冷静だった。

 だから、遅い言い訳を故障に求めるのも、求められるのも、嫌だった。足の故障がなければもっと速く走れていたかもしれないというのは事実ではあるが、とんでもない話だ。今回のチームには、そういうつまらない慰めを言う人が一人もおらず、感謝している。

 トレキャンの調整は、急ピッチで進んだ。やっと普通の集中状態に戻れた12日のレースは、タイムは悪かったものの、技術的なミスを整理するのにはうってつけだった。この日一日で、レースのイメージがかなり固まった。正確さ、とくにコンパス走の正確さ、がぎりぎりのこの日になってやっとマップコンタクトと深く結びついてくれた。これで言い訳モードは脱出できる。あとは一人で集中することだ。団体生活ではなかなか難しいが、同室の公也が気を使ってくれたので感謝している。バランスの悪さから左足首までが痛みを訴え始めたが、無視した。


12.まとめ

 今回の報告書はここまでで終わらせて頂こうと思う。黄色の表紙の報告書や「ミスパンチ」の記事(WM日記)などとあわせても、相当部分空白が残るだろうが、これ以上は今の時点では書けない。考えてみれば、レースの前に、もうほとんど結果は決まっているようなものだと実感したのは他ならぬこの私だった。だから、ここまで書いておけば、レースの結果もう自明だ。そして、レースは、やはり思っていた通りのものであった。

 WM95はここまでである。そして、レースは次へ向けてのスタートという意味しか持たないのだ。黄色の報告書では「ショートまで待ち続けた。ショートを走れば意味が見えてくるかもしれないと思っていた。しかしショートを走っても意味は見えてこなかった」と書いたが、それは当たり前だった。あの、WMでの私の唯一のレースは、次へのスタートだった。だから、その意味を早急に求めても駄目だ。次に、私が動きしたときに、あの経験はさまざまに変容しながら、私のなかでさまざまに意味を得てゆくのだ。足の故障が長引き、今だにスタートで足踏みしている私が、今その意味を整理できないでいるのは当然だ。


13.今後の方針(あくまでも思い付きにすぎない)

・プランニングとは何か?考えて実践する
・追い込みのトレーニングを、今度こそする
・コーチが欲しい。一人でマネージメントするのは限界に来ている(どなたかやって頂けませんでしょうか?)
・言語的アナリシスが出来ないのはなぜか?言語化できない領域に突入しているのか?それとも走力との関係が飽和しているのか?
・テライントレーニングをする


14.おわりに

 応援してくださったみなさま、ありがとうございました。今回はこんな報告しか書けませんでした。これでこの報告書は終わらせて頂きますが、これはかりそめの終わりに過ぎず、実際は今後の私の行動全てが一種の報告書みたいなものと考えないといけないのでしょう。そして、次回ノルウェーの報告書は今回のショートのレースから始めさせて頂くことになると思います。
                               つづく



付録 村越真へのオマージュ 〜世界選手権に向けて

 原初世界は混沌であった。
 『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名付け、やみを夜と名付けられた。夕となり、また朝となった。第一日である。』(旧約聖書、創世記1.3−5)

             *      *      *   

 最近の私のオリエンテーリングには奇妙に神経症的なところがあった。厳密なマップコンタクトによるナヴィゲートを推し進めるとこうなってしまった。自分のいる位置が針の先のように一点に決まってないと恐くなる。目の前の地形のうねりが予期やアタックを混乱させる。だが、地図を見ても、地図は沈黙で答えるのみ。有効な情報は何一つない。寄る辺のない混沌の淵に投げ込まれたかのような、解決しようのない原初的な恐怖感を、この間の世界選手権本セレクションでも何度か味わった。これは何故なのか?ヒントはまたもや村越真の文章の中にあった。

 現地の見すぎだった。「いいかい、目で見えるものに頼っちゃいけないんだ。目で見た解釈ほどあいまいなものはないんだから」(Shin MURAKOSHI '91 Version)。以後の村越の刷子「コーチング方法序説」、そして最新作「究極のナヴィゲーション」はさらに「現実」「解釈」「認識」の構造を明らかにしてゆく。もはやこれはオリエンテーリングの理論ではなく、この宇宙の見取り図だ。なぜに私が恐怖したのかはもはや一目瞭然である。私は混沌の宇宙を前に、自分の無力さに恐怖していたのだ。地図とこの頭があれば大丈夫、と思っていた私は、森の混沌に立ち向かう術なくして、恐怖で足が一歩も前に進められなかった。

             *      *      *   

 地図を作るということは、混沌の大地に秩序をあたえることなのだ。  『神は「等高線よあれ」と言われた。すると等高線があった。神はその等高線を描いて良しとされた。神はその凸と凹とを分けられた。神は凸を尾根と名付け、凹を沢と名付けられた。尾根があり、また沢があった。第一日である。』(調査日記)

 地図とは世界の二次元的分節の記号表現である。言語が概念世界を分節していくように、地図記号は空間を平面に分節してゆく。だから、さらに言えば、地図は差異の目録である。われわれは差異を利用することでしか世界を認識できないのだ。「悪」が「善」なしには存在し得ないのと同様に、われわれが道をたどれるのは、そこが森とは異なっているからであり、Aの林は、BCの林があってこそ、意味を持つ。われわれが尾根、沢と名付けているものでさえも、その斜面の方向の差異以外には何の根拠も持たないのだ。

             *      *      *   

 地図記号はあまりに記号であり、森はあまりに混沌である。等高線以外の記号は、森の混沌を暴力的に分節し、あいまいなはずのものを明快に表現する。しかし、小径の終りがどこかわからないのはいつものことだし、可能度ABCの境界線などはっきりしろというほうが難しい。「この沢に小さい岩があったんだけど、地図には載ってなかった・・・」このように、地図上で存在を抹消された岩にもよくお目にかかる。なぜその岩は存在を許されないのか?岩は、1m以上などという根拠のない"基準"によって、暴力的に存在と非存在にカテゴライズされてしまっている。

 等高線はその性質上さらにややこしい。「等高線を地図情報として利用するためには、そこから意味のある単位を切り取ってくる(分節化する)必要がある。」(村越、究極のナヴィゲーション)

 しかし、明らかにここには論理の転倒がある。熟練した調査者は、そこが尾根である、そこが沢である、ということをランナーに理解させ、利用させるために等高線を描くのであって、地形を正確に表現しようとして等高線を描くのではない。良い例は村越の調査である。彼の調査は急斜面をことさらに強調する傾向があるが、あれは「急斜面はナヴィゲーションに使えるんだよ、君も使ってみろよ」という彼のメッセージなのであり、地形の正確な表現と考えてはいけないのだ。

             *      *      *   

 論理の転倒とはまさにこの部分である。すでに、地図は「解釈」された結果なのだ。ランナーがその地図を見て「現実」そのものを復元することは原理的に不可能である。ランナーがたどろうと考えた尾根は、すでにマッパーによって尾根と解釈された尾根であり、ランナーがたどろうと考えた植生界は、すでにマッパーによって植生界と解釈された植生界なのである。少なくともプランニングの時点では、ランナーはマッパーを越えることは出来ない。

 われわれは地図から「意味のある単位を切り取ってくる(分節化する)」のではない。切り取られるべく用意された記号の集積を、そのように読んでゆくのである。もちろんそこに経験などのさまざまな要素が入りこむことは村越の研究などから明らかである。が、オリエンテーリングに必要な読図は、ナヴィゲーション用地図をマッパーの意図通りに、ナヴィゲーションの文法を駆使して解釈し、自分のテライン解釈=世界観と合致させていくことである。

 ゆえに、「地図=テクスト」に隠蔽された「権力」や「構造」を暴きだしたり、無意識のうちにすり込まれた「コード」を疑ったり、日常会話と同じように、マッパーとの対話で「ずれ」を楽しんだり、地図に表記されていない自らの世界に遊んだり

権力:例えば、全世界の大地を一通りの記号で表現しようとすることを権力の象徴として糾弾することは可能だ

構造:例えば、レース中にミスの反省をし、ミスを構造化すること

コード:例えば、人工物は黒で表記するのも根拠のないコードである

ずれ:例えば、おまえはこんな等高線を描くけど、俺はこう描くよ、と対話をすること=地図がおかしいと文句を言うこと

遊び:例えば、きれいな花に感動し、小川のせせらぎに耳を傾けたりする

 こういうことをしていては、残念ながら効率的なナヴィゲーションは出来ないのである。(だがこれはあまりに近代的だ)

             *      *      *   

 やはり、私は現地を見すぎていたのだ。混沌の森を完全に地図で表現できるわけがない。地図は他人の解釈したひとつの世界観にすぎない。それに自分の世界観を精緻に当てはめようとしても、それは無理な注文だ。当てはまらなかった私の世界観が揺らぎ、そして私は恐怖したのだった。

 では私のなすべきことはなにか?それは彼の世界観の文法を厳密に読み込み、その範囲で此の世界観を最大限に生かすこと。わかりやすく言えば、プランニングを厳密にすること、その中で最大限の創造性(=スピード)を発揮すること(スピードこそが創造性だ!またどこかで詳述)。決して両方を衝突させてはいけない。彼と此のバランスを柔軟にとらねばならない。

 このふたつの作業の結果、きちんと早くコントロールに到達できれば、それはすなわち私のレッグ解釈の正当性と、創造性の最大の発現のしるしであり、私の世界観と身体能力が混沌の大地の中で意味をもったという証左であり、私の観念と身体が世界に存在する証しなのである。

 世界選手権に向けて以上のような準備的考察を行なっている。あとはこの考察に実体を与えるのみだ。ゲルマンの文化を育んだ大地を、日本人である私はどのように解釈し、その中でどのように存在するのだろうか。楽しみである。

             *      *      *   

『夢から夢といつも醒めぬまま僕らは未来の世界へ駆けてく』

 オリエンテーリングを始めて10年、たかがマイナースポーツのオリエンテーリングが、自分の存在と分かち難く結びつき、生活に「根を持っ」ている、そういう地平にやっと辿り着けたような気がする。世界選手権出場もその結果にすぎない。こうして、「自分の全てを賭ける」という手垢にまみれた言葉が、真の姿で立ち上がってきた。それは、かっこいいものでも、華やかなものでもなくて、地味な日常の積み重ねの果てにしか生まれてこない、泥臭くて、かっこ悪いものなのだろう。

 もはやオリエンテーリングを始めた頃の純な情熱は望むべくもない。しかし、それを嘆いても詮ないことだ。日常の積み重ねの果てにしか生まれてこないものが存在するし、その日常が、しばしオリエンテーリングによってすばらしい輝きを発してくれるのだ。若々しい衝動を失ってのちも私がオリエンテーリングを止められなかったのは、この輝きのせいである。残念ながら、それはほんの一瞬の夢か幻のような、いくらつかみ取ろうと思っても、いくら留め置こうと思っても、すぐに逃げ去ってしまうものだけれども、スポーツはそういうものだし、それゆえに、我々は、否応無しにその一瞬に惹かれるのだろう。 『浅き夢見し酔ひもせず』

             *      *      *  

 最後に

 まずはこのような地平に至る最大の影響を与え続けてくれたコーチ(兼チームメイト)村越真に感謝したい。直接のコーチを受けたことはあまりないが、彼の書いたものは私のオリエンテーリング観に決定的な影響を与えた。ここに書いたことも、彼の土俵の外に一歩も出ていないのではないか、と思う。ここでは、私がこの文章を書きながら思いついた彼のキャッチフレーズを紹介して感謝の気持ちにかえたい。

《混沌の森を方向と距離という近代原理を片手に駆け抜けるモダンサイコロジスト》

あまり気が利いてはいないけれど、まあいいとしよう。どうしても混沌の世界に留まろうとする性向のある私には、彼の姿は非常に眩しい。

 だが、混沌の世界は豊かな世界だ。彼が切り拓いた世界の狭間に、まだ豊かな果実が眠っているかもしれない。修士論文で私は「遊び論」を取り上げるが、それも、遊び、という言葉が根本に持つ豊な混沌に引き付けられるからなのだろう。また新しい地平へ進んでいけるかもしれない。その時には、オリエンテーリングが村越とは違った姿で描きだされることだろう。ドイツ後の2年間もまた楽しみである。