WM日記 (1995年ドイツ世界選手権出場後のOLP兵庫機関誌「ミスパンチ」投稿原稿)

鈴木康史


WM日記/鈴木康史 Every sentence has the shades,or the implications of meaning.

6月29日(木)
 鴨川トライアル。右踵が決定的に痛くなる。だがWM前最後のトレーニングになるとは思ってもいなかった。この日、「なぜWMを目指す?WMもオリエンテーリングの大会の一つにすぎない。」とノートに書いている。これは、物語の始まりにちょうど良い。

8月5日(土)
 出発。昼の飛行機で関空を発つ。どちらへ?ちょっとそこまで。海外遠征という気がしない。3時間で心騒ぐ街香港に。世界とのつながりを感じる。ここで日本チームと合流。フランクまでは12時間。沢木耕太郎の「一瞬の夏」を読む。村越さんは「ソフィーの世界」を読んでいる。フェイ・ウォンの「重慶森林」を観られた。

8月6日(日)
 早朝のフランクに着く。涼しい。空港からそのままレンタカーでリッペに向う。真っ赤なミニバスが可愛い。昼ごろ宿舎と目されるハインリヒ・ハンセンハウスに着く。コテージに落ち着き軽くジョグ。夕刻、宿が違ってるというお達し。トレキャン中は違う宿らしい。その晩はその本館で寝る。快適。大会期間中はこの宿なのでうれしい。

8月7日(月)
 宿を移る。午前中はエルフェンボーンでトレーニング。久しぶりにテラインに入るが、まだ右足の恐怖感が大きい。午後は皆はトレーニングだったが、大事をとる。公也、大西とデトモルドで買物。賛助会員への寄せ書きハガキ書きが始まる。結構たいへんだ

8月8日(火)
 午前、午後ともトレーニング。まだまだ足が気に掛かる。踵をかばうのか、右足の疲れがひどい。オリエンテーリングしててもイライラする。この日にOLPサマーキャンプに手紙を出す。

8月9日(水)
 オーガナイザーによるミックスリレー。各国が集まってくる。去年の秋と同じだ。仕切ってるのも同じくウォーリー氏。アメリカのピーターも来ていたが、相変わらずだった。野茂を知っているかと聞いたら、良く知らんと言っていた。この日モスクワコンパスが壊れる。午後は買物。加賀屋の真似がはやる。

8月10日(木)
 休み。ハーメルン観光。お土産を仕入れる。ドイツ人観光客が多い、普通の街だ。帰りにバッド・ピラモントという温泉の街に。飲料用の温泉水にまで炭酸が入ってる。飲めたもんじゃない。ドイツ人もまずいと言っていた。その街で入江、収子、しのぶの4人でプールへ行く。広い。水はきれい。飛び込み専用プールもあった。僕は真面目に泳いで、飛び込んでいたが、あとの3人は遊んでいた。

8月11日(金)
 午前中はエルフェンボーンでトレーニング。午後はオーガナイザーによるショートレース。電気式パンチシステム。ゴールしたその場でラップまで出せる。良い。この日はレースは最悪だったが、ようやく足が気にならなくなってきた。テーピングにも慣れてきた。しかし、アンバランスのせいか右膝靭帯痛が出る。勉さんのマッサージで事無きを得た。カッシーは弱点が多かったが、僕も太股の内側は駄目だ。

8月12日(土)
 暑い日だった。スペクテーターズレースを走る。日本人応援団に会う。レースは最悪だった。どうにもならない。が、本番が心配にはならない。この日キンダーO(がきんちょOのこと)に参加した利佳ちゃんが参加賞でゲームをもらってきた。私が挑戦した。負けじとがきんちょの真ちゃんが挑戦し、共にはまっていった。直径5センチほどの円盤で、5層ぐらいの同心円状の仕切りに互い違いに入り口がついている。うまく円盤を動かしながら、いちばん外の小さな3つの玉を真ん中に運んでいくもの。真ちゃんはニュートン力学、カオス理論まで持ち出し、宿で攻略に成功していた。

8月13日(日)
 休み。この日に宿を引っ越したんだっけ?ハンセンハウスのきれいな部屋に落ち着く。ペンションみたいだが、労働者用の施設らしい。サッカーゲーム、ビリヤード、卓球台あり。地下のミニプールでクンバカ選手権も開催されていたが、息止めが趣味の入江は期待外れだったらしい。昼からバッド・ザルツフレンという街へ。名のとおり温泉の街で、この地方の観光、保養の中心地らしい。僕、しのぶ、収子のいつもの面子でプールへ。なんと塩水。水も生温い。XLの伯母ちゃんたちがぷかぷか浮いている。街の中心街には、木の枝で組まれた数メートルの変な壁が乱立している。壁の上からは温泉水が流されている。何なんだろう?この日、例のゲームに成功、記念写真を撮る。真ちゃんはラップまで取りはじめた。

8月14日(月)
 昨晩雨が降り一気に涼しくなる。ついにWMウィークに突入。今日はモデルイベント。明日の予選に出ないので、長めに走った。面白いテラインで、調子もちょっとは上向く。が、右はテーピングをすればOKだと喜んだのも束の間、右をかばいすぎたからか、ついに左の足首に痛みが走る。宿を変わってからはアイシングが不便で困った。明日はクラシカル予選。日本チームはあまり緊張していない。これは集中力が無いことの裏返しじゃないかと危惧する。僕は待つのみ。だが何を?

8月15日(火)
 クラシカル予選。公也、収子とゴールに居た。だれが通ろうがそんなことはどうでも良い。とにかくこの時間を待ち、過ごすしかない。宿に戻ってから一人でジョグ。その後ザルツフレンで開会式。街の子供がサインをねだってきた。町中を各国が行進。アトラクションや選手のウェーブは結構面白かったな。

8月16日(水)
 クラシカル決勝。午前中は山に入って軽くトレーニング、昼すぎに決勝のゴールへ。太矢さんに会い、寄せ書きTシャツを受け取る。ゴールはいつもと同じく牧草地。各国応援団は大騒ぎ。カタリンのハンガリーなどはたいへんな騒ぎだった。ヨルゲンはラストスタートで優勝したのでいちばん目立っていた。この会場で、木の柵を飛び越えた拍子に左足に痛みが激しく走った。何ということだ。この日日本から便りがくる。大西が持ってきたのが間違いだった。周りのがきんちょどもがひやかす。

8月17日(木)
 休み。宿で朝食前にヨルゲンと写真に収まる。あすがショートだけどほとんど緊張していない。もう結果は決まっているからか?もともとタフだからか?足が痛いからか?待ち疲れてもいない。良い状態だ。午前中は買物。封書を送り、お土産を探す。が見つからない。何度も買物に行ってるが、なぜか何も揃わない。午後は、山の上に立つ巨大な何とかという像を見にいく。昨日の男子のスタート〜3がこの付近なので、スタートまで遊びに行った。像の台座からはロングレッグが一望のもとだったのでパノラマに収めた。

8月18日(金)
 やっと走れる。ラス前のスタート。幸い両足ともこの遠征中最高の状態。左はなぜか痛みがない。右は暖まると痛くなくなる。入念にウォームアップしてスタート。別に緊張もない。レースはいつもの調子。長かったような一瞬だったような。いつものミスもしたし予想通り。だが、いつものレースをするためにここに来たわけではないのだ。ゴール後、さっさと日本選手団は僕を残して消えてしまった(村越さんと大西は残ってくれてたっけ)。リレーは走れないなとこの時思った。午後はショート決勝。ここでリレーに外れたと知らされる。WMがもう終わってしまった。今まで待って、また待たなくてはならない。日本に帰りたいと思った。男子優勝はオメルチェンコ。変な名前だ。紫のシルバの帽子が僕とお揃い。夜はザルツフレンでバンケット。

8月19日(土)
 朝から男子リレーのミーティング。開始時点では村越1走だったが、本番の走順となって終了。無責任に僕は何を喋ったのだろう?昼からスペクテーターズレースに出る。ドイツ最後のオリエンテーリング。ショート決勝の細かいテラインは非常に面白かったが、張りを失った両足が痛んできて困った。明日チェックアウトなので、夜は面倒な荷造り。最後のハガキ数枚を書く。けど、明日は日曜だし、僕の方が先に着くだろうな。

8月20日(日)
 朝が早い。大きな荷物を車に積み、6時過ぎには宿を出る。暑い日だった。この日はずっと一人でいた。頭のなかを物語が駆けめぐるうちに、リレーは進む。女子はスウェーデンの連覇が止まり、男子はスイスの3連覇。日本男子は22位だった。僕がヨルゲンとかトマス・ビューラーぐらい速ければもう少し良い順位が取れたのにと思うしかなかった。スー・ハーヴェイが戻ってきなさいと言ったのでそうすることにした。リレーが終わり、いきなり先発隊に入れられ、慌ただしく会場を後にした。今日中に飛行機に乗る公也、しのぶ、スイスにいく入江と、村越、僕の5人。怪我のカッシーを含む残りのメンバーとはフランクの宿で合流。カッセルで入江を降ろしフランクへ。大雨、雷、鮮やか。空港地下の巨大な駐車場に迷い込んだあと車を返し、しのぶ、公也を送り出して、村越さんと二人になる。フランクの町は何となく懐かしい。宿がザクセンハウゼンの近くだったので、二人で遅い夕食に。日曜だからか大音量のコンサートがやかましい。日本人もいっぱい居た。二人でビールを飲み、屋台でソーセージやラム肉を買って食べる。ドイツ最後の夜を村越さんと二人で酔っ払って過ごすとは・・・だが、何とも印象的なザクセンハウゼンの夜だった。WMリレーはもう昨日の事のようだった。気持ちは何も変わっていない。考えてることも何も変わっていない。なのに、痛みは急激に薄らいでいった。それはたぶん・・・私に必要なのは私への視線なのだろう。この時はじめて、私はコーチから評価を受けた。コーチを持ったことのない私には、初めての経験だった。私を見ている人がここにもいた。そういうことなのだ。大したことを喋ったわけではないし、村越さんの意図したことでもないだろう。しかしそれも彼らしくていい。痛みは去った。もう完全に酔っ払った。マクドナルドでシェイクを買い、食べ!ながら帰る。夜、村越さんは部屋から締め出しになってしまった。私は夜中に目をさまし、報告書その1を書いていた。

8月21日(月)
 午前中はフランクで買物。去年チェックしておいたCD屋などへ行く。去年は、また来年と思っていたが、今年は最後なので淋しくなった。フライトは昼。空港でも買物。カウベルはここで買った。飛行機に乗って、すぐに報告書その1をを書きあげる。後は寝てるのか起きてるのかわからない。一度物凄くゆれたので、死ぬかと思ってあわてようとしたが、誰もあわててないのでやめにした。飛行機の地震も恐い。

8月22日(火)
 香港で乗り換え。時間があったのでお土産をそろえる。ここで成田行きのメンバーとはお別れ。私もすぐに搭乗時間だ。あと3時間待つという村越さんを一人残して、飛行機に。去年のあの綺麗なスチュワーデスさんだったので嬉しかった。関空に着くと、日本はまだ暑かった。スラムダンクを読んで、家に帰って寝た。

8月29日(火)
 帰ってきて1週間経った。しかしもう数か月も経ったような気がする。遠いドイツでの出来事は、日本からの距離に比例して、生々しいままで急速に過去のことになってしまったようだ。今日手紙をもらった。僕を心配してくれる人から。ここにもまた一つの物語が開かれている。どうかご心配召されるな。あなたは全てをわかっています。僕はこっそりと祈ることしかできない。ゆるやかに、いつまでも、紡がれてゆく物語の行く末を。

10月3日(火)
 やっと今日、2本目の、本格的な報告書を書き上げた。犬が吠えているかのような混沌とした報告書になってしまったが、これでWM95の物語は終わらせた。しかし、私の物語は、終わりの終わりに向けて、キャラバンのように進んでゆく。WMにも意味はなかったけれど、僕は今も考え続ける。次の終わりはいつなんだろう?次の終わりを始めるために、ひとまずは、この日記にも、何度目かの、かりそめのエンドマークを置く。